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福祉の母「瓜生イワ」

1866年(慶応2年)、戊辰戦争の激しい戦火が会津をつつみ、家を焼かれ逃げ惑う人たち、傷ついた兵士たちが道にあふれていました。この戦いの中、飢えた人たちにかゆをふるまい、家を失った人には救いの手をさしのべ、また傷つき生死の境にある人には、敵味方の区別なく、身を挺して看護にあたる一人の婦人がいました。これが、明治の初期に福島県の救済事業を一身に担い、さらには、我が国における社会福祉事業の先駆者としてその生涯をささげた「瓜生イワ」でした。

イワは、1829年(文政12年)、会津の小田付村(今の喜多方市)に油商の長女として生まれました。江戸時代の終わりは近く、各地に飢えが続き、病気でやせ細って死んでいく人たちが大勢いた時代でした。そして、不幸は、イワの身にも降りかかりました。9歳の時の父の死と家の焼失、さらに長じては長い病床の末の夫の死、そしてそれに続く母の死・・・・・。ともすればくじけそうになるイワの心を支えたのは、少女時代に目の当たりにしたおじの医師山内春の貧しい人や病気で苦しむ人を懸命に助ける姿と、示現寺住職の「もっと不幸な人に一切をささげ、他人の喜びを自分の喜びとせよ。」という教えでした。イワは、一人で行商を続けながらも、孤独で寄る辺のない人たちを助け、貧しく身寄りのない病人には、身内のように手当てを尽くしたのでした。

敗北の苦しみが会津をおおう中、イワは、子供たちのために学校をつくらなければと考え、新政府に幼学校設置を願い出ました。しかし、賊軍の師弟に教育を施すことは容易には認められません。イワは、朝となく夕となく連日、民生局に出向き、学校の必要性を訴えました。ついに、イワの熱意が実り1869年(明治2年)、小田付幼学校がつくられ、この学校は、全国に小学校がつくられる1872年(明治5年)まで続きました。
しかし、イワの周りには、依然大勢の身寄りのない子供や老人などがいます。「この人たちをどうしたら救うことができるのだろうか。」そう思っている時、東京の深川に孤児や貧しい人を収容する救養会所という施設があることを聞き、イワは、単身上京することを決心をしました。1871年(明治4年)のことで、文字通り2本の足だけが頼りの旅でした。会所組織や経営、職業の授け方などを体当たりで学んだイワは、約半年後、帰郷の途につき、各方面に救養会所の必要なことを熱心に説いて回り、人々の理解を求めました。イワの下には、イワを頼ってくる人達が日増しに増え続け、ここに孤児や貧しい人たちを救済する施設の原型ができあがったのでした。こうしたイワの活動は、当時の福島県令の耳に入り、イワは何度も表彰を受けました。しかし、イワの思いは留まることなく、さらに広がって行きました。イワは20数里の道を福島まで何回も出向き、県令に貧しい人たちの救済を訴えました。貧しい人たち、病気の人、身寄りのない子供たちを助ける事業は、会津だけでなく、日本中どこでも必要なのです。
イワは、1887年(明治20年)、福島に移りました。そして、1889年(明治22年)には、福島救育所が設立されました。17年間夢に描き続けてきたものが、ついに実現を見たのでした。

その後も、イワの活動は止むことを知りませんでした。
1891年(明治24年)には、第一回帝国議会に女性として最初の請願を行っています。これは、全国に育児院を設立するために必要な資金づくりの方法として、寄付を寄せた婦人に対し慈善記章の制度を設けようというもので、採用には至りませんでしたが、国民の目を福祉に向け、世論を巻き起こす大きな力となりました。同じ年には、東京市養育所の院長渋沢栄一から招かれ、子供たちの世話に力を尽くしています。イワの周りには、イワの話しに耳を傾け熱心に応援してくれる人たちが集まり、福祉を目的とした組織がつくられました。「福島瓜生会」と「鳳鳴会」がそれでした。そしてその輪は、やがて、「福島県瓜生会」となり、さらに「東京瓜生会」へと各地へ大きく広がっていったのでした。
また、「鳳鳴会」につくられた育児所は発展を続け、現在、福島市にある児童養護施設に受け継がれています。

イワは、1897年(明治30年)、69歳でこの世を去りましたが、「福祉の母」と、多くの人に慕われたことを示すように、イワの銅像が、福島、喜多方、熱塩、そして浅草の地に、優しい顔で座っています。
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