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敬神の道  4月号     発行所 星田神社
■知られざる星田の里の七夕伝説■
交野が原には七夕星の神秘な幻想をかきたてる天の川が、東西に横流して、磯島あたりから淀川に流れこんでいる。この天の川を中心に、この地方には古くから七夕と星、天空にちなんだ地名や伝承地がまるで星屑のように散らばっている。ところが星田の七夕伝説を知る人は余りにも少ない。この川を舞台とした「羽衣伝説」説話学上では「仙女降臨伝説」や、星田の里の「七曜星降臨伝説」天の川上流の磐船渓谷には、物部氏の祖神・櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)が天上より磐楠船に乗って天物部等二十五部を従え降臨したという「天津神降臨伝説」などが今日まで伝承されている。古代、天の川の両岸の肥沃な土地を背景に、肩野物部の一族が、この辺りに勢力を伸ばしていたことは、肩野物部のものと思われる四世紀前半の古墳である森古墳群ならびに対岸の妙見山古墳からも窺がわれる。当時の人々にとってこの川は、命の糧であった。彼等は両岸に開拓した農耕地を基盤として文化を築いていったのである。それが故に、恵みの水の水分の神として御祖の櫛玉饒速日命を川上の磐船の地に奉祀したのではなかろうか。現在の河内森を本拠地としていたことは、ここを一条として条里制が敷かれていることからも類推される。当時この川は「甘の川」と呼ばれた。「甘田」とされた肥沃な農耕地は「甘の川」が「天の川」と称されたころには、牽牛が耕す天の「天田」となった。現在の天田神社である。一方対岸の等距離にある妙見山の頂きの磐坐(いわくら)を「織女石(おりめいし)」と称した。このことは『交野市史』にも記載されているのである。星田の里の古老たちもこの「織女石」という呼称を知る者が多い。元禄二年二月に当地を訪れた、当時六十歳の貝原益軒は、その紀行文『南遊紀行』に当時の天の川の情景を記している。『天の川の源は、生駒山の下の北より流れ出、田原と云う谷を過ぎ、岩舟におち、私市村の南を経、枚方町の北へ出て淀川に入る。獅子窟山より天の川を見下ろせば其川原白く、ひろく、長くして、あたかも天上の河の形の如し、さてこそ此川を天の川と名づけし意を知らず。凡諸国の川を見しに、かくのごとく白砂の広く直にして、数里長くつづきたるはいまだ見ず。天の川と名付けし事、むべなり。岩舟より入りて、おくの谷中七八町東に行けば谷の内広し。其の中に天の川ながる。其の里を田原と云、川の東を東田原と云、大和国也。川の西を西田原と云、河内国也。一潤の中にて両国わかれ、川を境として名を同じくす。此谷水南より北にながれ、西に転じて、岩舟に出、ひきき所に流れ、天の川となる。(中略)此谷のおくに、星の森有。星の社(現在の星田妙見宮と思われる)あり。其の神は牽牛織女也。此二神をいはれり』貝原益軒は、星田妙見宮の祭神を牽牛・織女の二神だと記しているのである。また当社には七夕の祭祀が記録されている。平成十九年交野が原にて全国七夕サミットが枚方市・交野市協賛で開催される。全国から来る七夕の関係都市に、私たち星田の里人は、この里で培われた七夕の伝統文化を胸をはって紹介したいものである。そのためにも、一人でも多くの交野市民にこの伝統文化を知ってもらいたい。
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敬神の道  12月号   発行所 星田神社
■お便所の神さまの教え■

 幼い頃、よく祖母にお便所には神様が居られるから、ベンキに唾を吐いたら罰があたると言われたものである。幼い頃の私には、用を足す所だから、唾もあまり変わりないのではないかと思っていた。物心がついた頃であっただろうか、禅宗の僧侶の人々が、寝るのも、食事をするのも、用を足すのも全てを修行の場として、厳格な規律のもとで生活しているドキュメントをテレビで見て、お便所と言う場の価値を知らされた記憶がある。お便所という場は決してきれいなところとは言えないが、きれい汚いでは言い切れないもっと人間の本質に迫るものがあるように思える。私の両親は共稼ぎであったので、幼い頃から昼間はもっぱら祖母が親がわりになって育てられたのであるが、小学校の頃、その祖母が病で、便通が悪く、5人兄弟の末っ子であった私は、よく祖母にカンプラ油を使って浣腸をしてあげたものである。それが決していやだとは思わなかった。何か善い事をしてあげたという思いのほうが勝っていたのかもしれない。親は、幼い子どもの下の世話をするのに、汚いなどと思って嫌がってしているのでは無いのと同じだろうと思う。これは愛情からきていると同時に、自分も世話になったという感謝の心が働いているにちがいない。禅宗の行の場としてのお便所なるものは、これこそ日々の生活への感謝であり、生への感謝の気持ちにその拠り所があるようである。
大小便時(だいしょうべんじ) 当願衆生(とうがんしゅじょう) ?除煩悩(けんじょぼんのう) 滅除罪法(めつじょざいほう)
大小便を順調に持てる事は、健康も食事も総て調っており、幸福の土台が完璧な証拠である、人間として一番の有り難いことである事を深く認識して深甚なる感恩を思うべきである。この感謝の気持ちを大切にするというところに、禅宗の行の場としてのお便所の面目がある。そういえばお便所で、己の大便にたかれるうじ虫を見て、悟りを開いた僧の話というのがある。生かされているもの同士の共生、自他愛の連鎖の輪、汚いきれいの感情を超えた一つの真理をそこに見たのであろう。
先日テレビである大手企業の社長さんのことが紹介されていた。若い頃苦労の末に築いた会社であったが、始めは得意先もなかなか附かず、社員も隙を持て余していたのであるが、その社長は隙でもじっとしておれず、せめてお便所の掃除でも一所懸命しようと思い、社員が横目で見ている中で、素手で一人せっせと掃除をしたという。掃除をすると何故か心が穏やかになる。そのうち社員も一人二人加わり、仕事にも皆が積極的になっていったという。その後、客先の便所掃除も買って出て、それが縁で得意先も日増しに増え、大手企業になった今日でも社長自ら、勤務前に会社に出向き、会社前の清掃から便所掃除までしておられる。社員も自発的にこれに参加しているというのである。今でも便所掃除も素手で、直接ベンキを握り掃除をされる。その姿が本当に潔い。きれいとか汚いを越えたところに人間の心を開いてくれるものがある。幼い頃、祖母がベンキに唾を吐くなと躾てくれたことの道理がわかるような気がする。何事にも感謝し、他の人に喜んでもらおうとする心のありようが、社長さんの掃除姿に溢れていた。水洗便所になって総てが他人任せになっていく今日、私たちが日頃忘れてしまった心のありようを教えてくれたテレビ番組であった。

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敬神の道 11月号 発行所 星田神社
■稲むらの火の主人公 濱口梧陵 ■
 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が世界に紹介した主人公濱口梧陵(はまぐちごりょう)の「稲むらの火」は、戦前の小学校国語読本に五兵衛として登場する。その崇高な行為は当時の子どもたちに感動を与え、年配の人々の中には知る人もあろう。今ここに紹介する。
『稲むらの火』
「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、別に烈しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとした揺れ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。五兵衛は自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちに吸いつけられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂浜や黒い岩底が現れてきた。「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。「よし」と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっている沢山の稲束が積んであった「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、その稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田すべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。「家事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、駆け上がって来た。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。「うっちゃつておけ。−大変だ。村中の人に来てもらうんだ」村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後から上がってくる老若男女を一人一人数えた。集まってきた人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とを代わる代わる見比べた。
その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。「見ろ。やってきたぞ」たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一向は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。「津波だ」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきを伴って、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙の外は何物も見えなかった。人々は、自分たちの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は波にえぐられて跡形もなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕闇に包まれたあたりを明るくした。はじめて我にかえった村人たちは、この火によって救われたのだと気が付くと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。(おわり)
生前、濱口梧陵、勝海舟と交友を結ぶ。梧陵が亡くなった時、和歌山県広村にある広八幡神宮の境内奥に、海舟の筆になる顕彰碑が建立された。津波の時、梧陵は自らも津波の濁流に呑み込まれながら、先頭にたって住民救助に奮闘している。さらに梧陵の業績に圧倒されるのは、津波襲来の後、心身疲弊した村人千四百人の今後の生活に憂慮し、近くの庄屋に懇願して年貢米五十石を借り受け、自らも玄米二百俵を醵出。また私費を投じて援助金を出している。また被害者の今後の心の絶望感を危惧し、以前から設けられていた石垣の背後に、高さ五メートル、根幅十七メートルの防波堤を築き、年貢米の重い上田を防波堤よって埋めることで、重税から軽減させ、さらにこのために村人を雇用することによって生活の困窮を救わんために、私費で賄う旨を、藩に申し出たのである。藩の支出を待っていたら出来ないとの決意であった。その後も地域教育に命を捧げ、享年六十六歳、波乱万丈の生活を閉じる。「稲むらの火」の折、梧陵三十三歳であった。
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敬神の道 10月号 発行所 星田神社
■天神様のまごころ■
 神社に参りますと天神さまがよく祀ってあります。一般に学問の神様として、試験合格の祈願などに学生の人々もよくお参りされております。今日はこの「天神さま」こと
「菅原道真」について書いてみたいと思います。菅原家は昔から学問によって朝廷に仕えていた家柄でした。道真自身も若い頃より人一倍勤勉で努力家でしたので、過去二五〇年に六五人しか合格者が出なかった超難関の試験に合格いたします。そして学者として最高の文章博士にも任命されますが、役人になってもその勤勉努力は変わらず、朝も暗いうちから服装を整え、冬は凍える手に筆を持ち、日々仕事に打ち込む毎日を過ごします。四二歳の時に讃岐国(香川県)の守(今の知事)に任命され、初めて間近に見た地方の人々の暮らしは、都では考え及ばなかったものでした。貧しさの中で必死に生きようとする人々の暮らしがそこにありました。この時より道真は自分の政治家としての責任を重く実感します。日々政治家として努力奮闘しました。この頃、二一歳で即位された宇多天皇が、父の光孝天皇の
頃より政治を取り仕切っていた藤原基経に、これまで通り政治を任せるために関白に任命すると、任命書の文言が気に入らないと言って出勤せず、天皇が嘆かれておりました。
これを知った道真は、当時基経の威勢を恐れて進言する人が誰もいなかったので、自ら基経に任命書の解釈と態度が誤っていることを手紙に書いたのです。道真の説得で基経は態度をやわらげました。その後寛平六年(八九四)遣唐使に任命されると、当時の国情を思いばかり、遣唐使の廃止を建言します。何事にも決して怠ることなく努力され、政治家としての責務を実践されました。宇多天皇は、基経の死後、摂政も関白も任命されず、一三歳の子に位を譲り、上皇として政治の助言をする立場に立たれました。父の意思を継いだ醍醐天皇も、藤原家の専制政治を心配され、摂政も関白もおかれませんでした。この時、左大臣に二八歳の藤原時平を右大臣に五四歳の道真が任命されました。ところが、道真を邪魔に思った時平は「道真は、陛下の弟が自分の姉と結婚したので、そのお方を天皇の位につけようとしています。」と偽って天皇に告げ口をいたします。若い醍醐天皇は、この言葉を信じてしまわれ、道真を九州の大宰府へ左遷させました。また道真の一族も、それぞれ別々の地方に追放になりました。この決定を知った時、道真は屋敷の庭に咲いていた梅を見て歌を詠みました。
 東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 
主なしとて 春を忘るな
(東からの風が吹く春になったら、その風にのせて、その梅の花の香を大宰府まで届けて、京都を思い出させておくれ。家の主人がいなくても、春が来ることを忘れないでおくれ。梅の花よ。)
こうして、梅の花が天神さまの家紋になり、今でも道真を祀っている天満宮では梅を植えているのです。道真は大宰府に就いて二年後の二月に、ちょうどあの梅の花が咲いている頃、最後まで忠義を尽くされ、ひっそりと貧しい寂しいかの地で息をひきとります。醍醐天皇は、時平の告げ口を信じたことを後悔され、道真を罪にした命令を取り消され、その後二度と失敗は繰り返すまいと決心され、臣下の率直な忠告に耳を傾け、民の心を大切になされ、名君としてその後の村上天皇の御代とともに「延喜天暦の治」として讃え続けられてきました。道真のその高潔な姿勢は、後世の人々の感動を呼び、実直で勤勉・努力なその人柄によって、学問・受験の守神とされました。道真の歌と伝えられ、後世の人々が愛唱してきた歌に
 心だに まことの道に かなひなば
          祈らずとても 神や守らむ
(正直で他人を思いやる心さえあれば、祈らなくても、神様はいつも守って下さっているものだよ)
今も道真は私たちにまごころの大切さを社の中から囁いているようです。
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敬神の道 9月号 発行所 星田神社
■日本の原風景を求めて■
 この数日、少しばかり朝夕も涼しくなり、小さな秋がきているようだ。昨夜は、虫の音が清々しく鳴いていた。四季のめぐりのなんと有難い事か。この四季の恵みによって我々は生かされているのだと切に感じる。四季の恵みによる風光明媚なわが国であるが、そんな我が国の光景の中で、私の脳裏にいつも浮かんでくるのは、鮮やかに太陽に輝く千畳敷の段々畑であり、幼い頃に目にした見渡す限りのなだらかな山々の頂きに無数に立つ小さな鳥居のある光景である。村々の人々が朝夕に手を合わせにくる鎮守の杜。
「遠き山に日は落ちて 星は空をちりばめぬ 今日のわざをなし終えて・・・」と云う唱歌の一節がいつも一緒になって浮かんでくる。頂きに立つ鎮守の杜は、ずっと昔からそこにあったに違いない。そういえば、ミレーの晩鐘の絵画もなぜか重なって浮かんでくる。慎ましい鎮守の杜のある農村の光景が私にとっての我が国の原風景である。戦地に赴いた人々によって歌われた「誰か故郷を想わざる」の歌詞にもある、あの山この川、自分を育んでくれた自然の恩恵とその生活地域の営み、これこそがそこに暮らした人々の原風景であるに違いない。その地域、その共同体社会での営みの歴史、それが、それぞれの人々の営みの中に秘められている。地域の営みの歴史の中に、そこに生きてきた先人の汗と苦闘の末築き上げた郷土の歴史・文化・伝統がある。そこには、そこで生かされたという感謝の心が郷土を愛し、今日まで伝えた人々の無言の祈りとなって窺える。いにしえを回顧することによって、私たちは、そこに生かされていることに気づき感謝の心が出来るのではなかろうか。
『万葉集』巻二十には、大伴家持が当時藤原氏の圧迫を受け、一族の者が悉(ことごと)く排除されていく折に詠んだ歌がある。
ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽(たけ)に天降りし 皇祖(すめろき)の 神の御代より 梔弓(はじゆみ)を手握り持たし 真鹿兒矢(まかごや)を 手挟み添えて
大久米の 丈夫武雄(ますらたけお)を 先に立て 靱(ゆき)取り負ほせ 山河を 磐根(いわね)さくみて ふみとほり・・・あたらしき 清きその名そ おろそかに 心思ひて 虚言(むなごと)も 祖の名継つな 大伴の 氏と名に負へる 丈夫の伴
これは、当時一族の憤懣を抑えるために、いにしえより続いた大伴の尊ぶべき清き名に虚言のような愚かな事は言わずに、祖先かからのこの名を汚すことがあってはならないと戒めて歌った歌である。我が国では、大切な伝えごとには、必ず遠い昔を回顧して伝えている。いにしえを回顧することが、遠い未来を思うことになったのである。教育勅語にも「朕惟フニ、我カ皇祖皇宗、国ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツコト深厚ナリ」と我が国史の回顧がなされる。これは『古事記』『日本書紀』はもちろんのこと『大祓祝詞』にも見ることが出来る。国の歴史、共同体の歴史、それらを回顧することによって、悠久の歴史の中の今の存在意義が明確に蘇ってくる。
遠つおやの しろしめしたる 大和路の 歴史しのびて けふも旅ゆく
昭和天皇の昭和六十年の御製であるが、これこそが、遠い昔から継承してきたわが国の精神構造なのである。私たちは、今もう一度いにしえを回顧して、わが国のそれぞれの原風景を想い浮かべて未来に向けて歩みたいものである。
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敬神の道 8月号 発行所 星田神社
■中今(なかいま)を生きる■
蝉時雨に夕方の涼風がなにより有り難い。春に植えた境内の古代米の苗も青々と育って、昼間の燦燦(さんさん)と降り注ぐ太陽の恵みを思う存分に受けている。先日来より、七夕祭、妙見夏祭(星降り祭)も無事に終え、やっと一段落したと思ったら、地蔵盆や祖例祭のお祭りの段取りが気に掛かって来た。季節が刻々と移り過ぎていく。過ぎていくことが有り難いのであろう。日々の雑務に今日は何をしたのであろうかとふと脳裏を横切る。 人の営みは、日々一歩一歩前に進んでいたらいいのだと一人頷いている自分がそこにある。何事も一石二鳥なんて考えるまい。私の好きな言葉に「日々是好日也」というのがある。日々一刻と過ぎていくからこそ好日とも思えるのである。時の経過を意識する事は尊い事である。生きている事が実感できる。生あるものは皆成長する、そしてまた去っていく。失敗もある、成功もある。楽しい事もある、悲しい事もある。それでこそ、人の営みなのだろうと思う。 
神道の思想に『中今(なかいま)』という言葉がある。続日本書紀の宣命(せんみょう)8世紀ごろの国文体の詔勅(しんちょく)に四例ほど見える語であるが、神道のものの考え方をよく言い表した味わい深い思想がそこに見られる。この『中今』という言葉の意味は、過去・現在・未来というおよそ存在し得る全ての時間の中で、過去と未来の中間に位置する今の世に、最高の価値を見出そうとする姿勢を示している。これは歴史の永遠な発展を肯定しながらも、自己がそれに直接参加しうる現在という時をあらゆる時間の中で最も価値あるものとして受け止めるのである。我々が直面する一刻一刻のいのちを力いっぱい充実せしめることによって、個々の人生の中に価値を見出だすのである。
昨今、国内外で見聞きする暗いニュースには誰もが未来に対し一抹の不安を抱いているかもしれない。かつて南北朝時代の勤皇家、北畠親房はその著、神皇正統記で当時の末世思想に反駁を加えた。当時の中世という血なまぐさい戦乱の時代に人々の心をとらえたのは末法の思想であった。王法百代として天皇の治めたもう世は百代限りでおわるとする説が当時強調された。
親房はこうした百王説について「十々の百にはあらざるべし、窮(きわま)りなきを百といへり」と歴史の無限の発展を述べた。そして「代降れりとて自らいやしむべからず天地の初めは今日を初めとする理(ことわり)あり」とも言うのである。まことに一日一日は歴史のはじまりである。毎日が、過去・現在・未来を通じて充実されるべき最良の日々である。そう言えば映画の題名に「明日に架ける橋」というのがあった。今日がなければ明日など来ないのである。絶えざる流転を繰り返しながら永遠に循環し向上していくからこそ価値があるのである。かつて俳人の山頭火は歌の命とはと問いただされた時に、彼は次のように言っている。おもむろに路上に落ちている小枝を拾ってポキッと折ってみせて「この瞬間の沈黙が歌の命だ」と。この一瞬一瞬が輝いているのであろう。その一瞬の輝きが山頭火にとっては歌であったのだろう。
「塵(ちり)かと吹けば生きてゐて飛ぶ」  山頭火
何か黒いものがうごめいている。塵かなと思って強く息を吹きかけると、驚いたことにその黒いものは翔びあがった。こんな小さい虫でも一生懸命生きているのだ。山頭火にはその翔び上がった虫は一瞬の生の煌きに映ったのである。「日々是好日也」一日一日をもっともっと大切に生きたいものである。
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           敬神の道 7月号 発行所 星田神社
                ■交野の七夕まつり■  七夕シリーズ 其の2
 交野が原には七夕星の神秘な幻想をかきたてる天の川が東西に横流して、磯島あたりから淀川に流れこんでいる。この天の川を中心に、この地方には古くから七夕と星、天空にちなんだ地名や伝承地がまるで星屑のように散らばっている。
 この川を舞台とした「羽衣伝説」説話学上では「仙女降臨伝説」や星田の里の「七曜星降臨伝説」天の川上流の磐船渓谷には、物部氏の祖神櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)が天上より磐楠船に乗って天物部等二十五部を従え降臨したという「天津神降臨伝説」などが今日まで伝承されている。
 天野が原の七夕伝説は『伊勢物語』で名高い在原業平(ありはらのなりひら)の「狩りくらし棚機つ女に宿かむ天の川原にわれは来にけり」の歌にも窺がえるように平安時代の文学には数多く登場している。
 今ここに私の脳裏に一つの光景が浮かんでくる。それは元禄二年二月に当地を訪れた、当時六十歳の貝原益軒が、その紀行文『南遊紀行』に記した当時の天の川の情景である。
 『天の川の源は、生駒山の下の北より流れ出、田原と云う谷を過ぎ、岩舟におち、私市村の南を経、枚方町の北へ出て淀川に入る。
 獅子窟山より天の川を見下ろせば其川原白く、ひろく、長くして、恰(あたかも)天上の河の形の如し、扨(さて)こそ此川を天の川と名づけし意をしらず。凡諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直にして、数里長くづづきたるはいまだ見ず。天の川と名付けし事、むべなり。岩舟より入りて、おくの谷中七八町東に行けば谷の内広し。其の中に天の川ながる。其の里を田原と云、川の東を東田原と云、大和山也。川の西を西田原と云、河内国也。一潤の中にて両国わかれ、川を境として名を同じくす。
 此谷水南より北に流れ、西に転じて、岩舟に出、ひきき所に流れ、天川となる。(中略)此谷のおくに、星の森有。星の社(現在の星田妙見宮と思われる)あり。其の神は牽牛織女也。此二神をいはれり。』六十歳の翁は、春も浅い天の川の情景に心ときめかしたことであろう。
 この自然風土があってこそ、当地に天上の星々を地に映した星にまつわる文化が生き続けたのであろう。当時、貝原益軒は、星田妙見宮の祭神を牽牛・織女の二神だと記しているのであるが、『交野市史』には、星田妙見宮の磐坐(いわくら)を、当地の人々は「織女石」と呼んでいたことが窺える。星田の里の古老たちもこの「織女石」という呼称を知るものが多い。
 当星田妙見宮の資料にも、当社に七夕の祭祀が記録されており、七夕伝説が当社に残っていた事は裏付けされるのであるが、だはこれに対する牽牛はどこを指すのであろうか。天の川の対岸に位置する磐船神社の天の磐楠船とされている大岩であったようである。磐船神社の御祭神である物部氏の祖神櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)は『先代旧事本紀』天孫本紀によると、天忍穂耳命(アメノオシホミノミコト)と拷幡千々姫命を親としており、拷幡千々姫命はその名前からして機織の姫であった。
 河内の国河上の哮峰に天降った物部氏はこの交野が原を拠点として勢力を伸ばしていった。この物部の一族には、葛城の機織り集団である當麻物部などがいた。当社の鎮座する妙見山にも、四世紀前半の交野物部の長のものと推定される妙見山古墳がある。初期の交野が原の七夕祭祀は、この物部氏によって展開されたのではなかろうか。その後、四世紀後半から五世紀になって渡来系の機織集団の祭祀へと繋がっていったのではなかろうか。
六世紀から七世紀にかけての交野が原の七夕祭祀がそれであるように思われる。(次回づづく)
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      敬神の道 6月号 発行所 星田神社
 ■相撲の神事と七夕■  七夕シリーズ 其の1
日本の国技としての相撲(すもう)は、いつ頃から始まったのであろうか。六世紀初頭の古墳から出土された埴輪(はにわ)には、相撲の立会の姿に酷似したものがあるところから、すでにこの頃には、相撲の原型らしきものが既に出来上がっていたと思われる。菅原道真の編纂による『類聚国史(るいじゅうこくし)』の歳時部では『日本書紀』の垂仁記七年七月七日の大麻蹴早(たいまのちはや)と野見宿禰(のみのすくね)の相撲が、相撲節(すまいのせち)の起源とされ、垂仁天皇七年(前二三年?)が記載されている。奈良時代には、既に宮中において七月七日に宮中相撲が恒例となり、これを一般に相撲節(すまいのせち)と言っているが、垂仁七年の条と相撲節(すまいのせち)の古来の恒例日が七月七日であったのは、この両者を見る限り、七月七日の七夕の儀礼との関係が示唆される。今日行なわれる七夕の神事がなぜ七月七日であったのか、なぜこの日に相撲節がおこなわれたのか、たぶんこの日は、宗教的習俗の催される特別の日であったにちがいない。古く七月七日は一月七日と対をなす半年毎の祭祀の日であった。一月七日は人日(じんじつ)と称し、文字どおり人の日であり、七草粥を食べ、その年の運勢を占い、私たちの生活の始まりの為の祭祀の開始日であり、一月八日が事始めの日である。そして、半年目の七月七日は夏も終わり秋が始まる季節の移行日であり、秋の収穫の時期にあたる。七夕の儀礼が、古い時代の豊穣(ほうじょう)祈願の宗教的習俗から由来していることは、牽牛(けんぎゅう)・織女の七夕伝説の成立過程においても示唆されるのであるが、相撲がなぜこの七月七日に行なわれたのであろうか。七月七日に相撲をとったという大麻蹴早(たいまのすくね)と野見宿禰(のみのすくね)について、大麻蹴早については、あまり定かではないが、野見宿禰に関しては、垂仁記三十二年七月の条にも記載されており、埴輪の起源譚(きげんたん)とともに土部連(はじべのむらじ)の始祖として天皇の喪葬(もそう)をつかさどっていたことがわかる。大麻蹴早と野見宿禰の相撲は垂仁天皇の皇后比婆須比売命(ひばすひめのみこと)の喪葬儀礼として行なわれたとみられているが、ここでは、相撲と喪葬儀礼との深い関係が示されている。たぶん相撲儀礼あるいは力士埴輪には、死者への鎮魂と辟邪(へきじゃ)があったのであろう。いずれにしろまだ未解明な点である。高句麗(こうくり)古墳の中には、相撲壁画で有名な4世紀末の角抵塚があり、その頂部には北斗七星などの星宿が描かれていて興味深い。現在我々が見る国技としての相撲には、古きより伝えられた神事としての特徴が多々伺うことが出来る。これらの儀式的特長は、神明の加護を求める農耕儀礼とともに、平安時代になると宮廷で行なう年中行事としての相撲節会として執り行われるようになる。これは、国家安泰・五穀豊穣を祈る重要な宮廷儀式として、諸国から相撲人が集められ、天覧相撲として隆盛を極めていく。一方地方では、豊年祈願の年占として相撲神事が行なわれたり、御田植祭に独り相撲をする。独り相撲は目にみえぬ相手と一人でとることにより、悪い精霊を圧伏するのが本義であろう。思うに、七夕の七月七日の相撲は、次の半年における悪い精霊の圧伏を本義とした呪術的神事であったのかもしれない。今日見る櫓(やぐら)太鼓は、晴天と五穀豊穣、国家安泰を祈り、櫓の上で太鼓を打ち鳴らす。天神を祀る依代(よりしろ)として竹の先に麻の御幣(ごへい)がそこにつけられているのである。土俵の上の吊り屋根は、神明造りの神殿を表し、四方の房は、北の玄武には黒房が、東は青龍の青房が、南は朱雀(すじゃく)の赤房を、そして西の白虎(びゃっこ)には白房が垂れ下がり、四獣神の各守護神を表しており、土俵の綱は結境(けっかい)としての神聖を表し、相撲をとらない時には御幣が立てられる。土俵はつまり神の空間なのである。力士の垂れや横綱の回し綱は、相撲人(すまいびと)そのものが、神としての神聖を表しており、行事は神主の役割を演じることになる。相撲人(力士)が取組みの前に力水をもちいるのは、身を清める為であり、口を拭う半紙は力神と称しているが、これは神社参拝における祈りの手水そのものである。力士が撒く塩は清めんが為に行なわれる。土俵は塩と土とで固められ、場所毎に地鎮祭としての土俵祭が行なわれる。横綱の土俵入りには、雲龍型と不知火(しらぬい)型があるが、四股(しこ)を踏む作法は、大地の神を祀り鎮める所作であるという。喪葬相撲の目的が災禍の原因となる死者の荒魂や悪霊を鎮める呪術的行為であるとすれば、七夕の日の相撲は、七夕が盆の前提となる行事として、水浴びや潔斎(けっさい)をしたように、相撲をすることによって荒魂や悪霊を鎮める呪術的行為として、相撲が行なわれたのかも知れない。今日我々が「相撲(すもう)」と称している語源が、独り相撲での、悪霊を追い払う所作が一種の舞となった「相撲(すまい)」であることを考えると、相撲の格闘技としての勝敗よりもその所作そのものに呪術的宗教的本義があったのかもしれない。本来七月七日に催された相撲節(すまいのせち)は、いつしかその本義が忘れられたのであろうか、平城天皇の国忌におよんで、七日さけて七月十六日に改められ、さらに元慶八年(八八四年)八月五日には七月五日を節日とするようになり、七夕から離れ、相撲本来の本義が忘れ去られてきたのであろうと思われる。この交野が原の天の川を中心に伝えられてきた七夕伝説とともにこの相撲儀礼の痕跡が今もどこかに潜んでいるのかも知れない。
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    敬神の道  5月号  発行所 星田神社
■日本のお山はお米を作る■

 星田妙見宮は大阪府交野市南部の山地の一角に位置している。昔は南に連なる山並みとひと続きであったが、近年の宅地化の波が押し寄せ、妙見山は、ぽっつりと一つの孤立した山塊となってしまった。昔は妙見山から菖蒲谷まで尾根突きであった。これが寸断され、現在の妙見東地区が開発された。妙見山の裏側は紐谷と称し、欝蒼とした照葉林の山が連なっていた。十数年前に、この地区を創造の森という公園計画があったという。しかし現在も南星台地区の住宅地としてその山裾は削られている。当時天野史郎氏が調査したところによると、シダ食物以上の高等植物は二    一二種に及んだと記録されている。辛うじて妙見山は鎮守の森として残された。この森が、現在大阪に残されている縄文時代の森を偲ぶ貴重な森であることを知る人は少ない。シダ植物だけで五〇種あまり、シダ植物以上の高等植物の数、三四四種が記録されている一番高い高木層のコジイ、アラカシ、スギ、次に高いツバキ、サカキ、シャシャンボ等の亜木層、さらにその下にはアオキ、カナメモチ等の低木層地表面にはカナワラビやスゲの類の草木層の四層の自然の姿を見ることが出来る。そしてそこには常に、色々な野鳥が飛来する。このような照葉樹林の森は年々見られなくなってきた。百年、二百年、千年と森の息遣いを見守って来たのは何であったのであろうか、日本の国土の七0%近くが森林であると言うが、この世界に比類ない森林がなぜ日本に残ったのであろうか。その森林が次々と破壊されている中で、今改めて私たちは祖先の残したこの貴重な遺産に目を向けなければならないように思う。かつて山村にあっては、庭先農業と言われる零細な段々畑に支えられ、残りの労働力の次男、三男は裏山に入って行ったと言う。一家を養うには、田畑が必要であるとともに、お山が必要であった。山村にあっても、農家がやっていけなくては林業も出来なかった。里村においても、田畑を維持するには、水が必要であり、この水を維持するにはお山が必要であったと言う。日本列島は地形が急峻であるので、雨が降れば急に水が出て晴れれば乾いてしまう。土地を平にしても、木を切れば洪水で田畑が流されてしまうので、祖先の人たちはせっせと木を植えたと言う。水源を守り、山崩れを防ぐ為の伐採の制限と植林の法律を定めた世界最古の保安林法と言えるものが、大和朝廷の始まるころ、中央の命令として出されている。万葉集には「古の 人の植ゑけん杉が枝に 霞たなびく 春は来ぬらし」と植林の様子が伺える。農民は水田の水を作るために木を植えた。今私たちが使っている水道の水は、かつて祖先の人々が木を植え、お山を守った成果であるにちがいない。その水は森林の保水作用によって、何百年前の地下に蓄積された水であるのかもしれない。私たちは、今その自然の恵みのサイクルを意識することなく、蛇口を捻れば水が出てくるのである。日本のお山がお米を作るのであり、稲作によって日本の森林は守られてきたのである。昔、星田の村人は、お山に入っては、薪を採り、また植林をしていた。薪をとる時期も、決まりがあったと言う。今日薪を採ることもなくなり、里山に入らなくなって、里山が近年荒れだした。昔は水田の水は死活問題であり、里山の管理は当然の行為であったのである。昔の日本人は、自分の田畑に来る水の上流を常に見たであろうし、またこの水がどこに行くのか下流をも見たにちがいない。だから川に汚れものは捨てられなかった。稲作地が減少するにしたがって、お山は荒れてきた。川の水は汚れてきた。稲作の文化がなくなれば、森の文化もなくなって行く。今地球環境問題の世界の合言葉は「持続可能な開発」である。それを、私たちは日本の農山村の人たちは、最近まで何の不思議もなく当たり前の如く行ってきたのである。里山も人間の手が入らなければ荒れてくるのである。里山が荒れると、河川も荒れる。河川の環境は海の環境を悪化させるのである。海の環境を守るには森林を守らなければならないのである。

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目次
敬神の道4月号 ■知られざる星田の里の七夕伝説
敬神の道12月号 ■お便所の神様の教え
敬神の道11月号 ■「稲むらの火」の主人公濱口梧陵
敬神の道10月号 ■天神さまのまごろろ
敬神の道9月号 ■日本の原風景を求めて
敬神の道8月号 ■中今を生きる
敬神の道7月号 ■交野の七夕まつり
敬神の道6月号 ■相撲の神事と七夕
敬神の道5月号 ■日本のお山はお米を作る