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国境や政治宗教を超えた結実
─2008年度現地事業報告

PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長
中村哲
ペシャワール会報100号より
(2009年07月15日発行)

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2008年度を振り返って

 ペシャワール・ミッション病院のらい病棟に赴任したのは、確か1984年5月26日だったと記憶している。あのとき、25年後に自分がアフガニスタンにいて、用水路を掘っているなどということは夢にも考えなかった。
 かつてアフガニスタンを闊歩(かっぽ)したソ連軍の姿も今はなく、代わりに米軍が支配者として力をふるっている。様々な出来事があり、様々な出会いと別れがあり、様々な死と生き様があった。敵も増えたが味方も増えた。責任も年の数だけ重くなってきた。波瀾万丈も、ここまでくると日常になってしまった。
 25年前、ペシャワールでさえ、日本との通信は専(もっぱ)ら手紙が頼りで、早くても一週間かかった。電話は3分もつながれば幸運で、滅多に使うことはなかった。それはそれで、何とかなっていたのである。今はどうだろう。電話どころか、現場の映像さえ瞬時に送れる。情報の伝達は飛躍的に進歩した。悪いことではない。
 だが、それで人間が利口になった訳ではない。気が短く、関心が転々と移ろいやすくなっただけのことである。現地の人々の実情は相変わらず伝わりにくいし、世界中が力に屈しやすい実情は変わらない。謀略と戦争は続き、罪のない人々が大勢殺され、数百万人単位で新たな難民が発生し続ける。まことしやかな評論が横行し、幼稚な手段で人はだまされる。世界中が何かにとり憑(つ)かれた様に、「テロの脅威」を語り、そのテロの巣窟をアフガニスタンだと思いこまされている。
 はっきりしているのは、こんなフィクションは長続きせず、力は力によって倒されるという鉄則である。現在アフガニスタンとペシャワールで起きている事態は、世界的な破局の入り口にすぎない。疑わなかった足元の土台が揺らぐとき、世界は再びアフガニスタンを思い出すだろう。
 幸か不幸か、同じく変わらないのがわれわれの現地活動である。医療活動から用水路建設まで、ずいぶん変わったではないかと言われればその通りだ。しかし、精神は器ではない。人間にとって何が必要かを追い求めてきた点は、少しも変わらない。困窮にある人々と泣き笑いを共にし続けてきたという事が大切なのである。
       

灌漑前(2005年5月)の砂漠化したスランプール地区。下写真は同地区4年後。
      

上写真と同じ場所。灌漑後の2009年5月。


おかげで自分たちもずいぶん楽天的になった。人のことばは運命的に虚構を抱えている。美しい理念、何かの使命感や信念などという代物に縛られるのは不自由だ。アフガン農村の人々と苦楽を共にし、人為に信を置かなくなった分だけ、恵まれた25年間だったと思っている
 やはり24キロメートルの水路が完成しつつあるのが、一番うれしい。多くの人々の生命と生活を保障し、自然の恵みを証し、日本人もアフガン人も一体となり、国境や政治宗教を超えた結実を、言葉によらず、直(じか)に示してくれる。そして、それを支える良心が日本や現地にあるという事実が、いっそう楽天的にしてくれる。
 水路の完成は節目ではあるが、今後も変わらずに仕事が続くことを祈る。それがまた、伊藤和也君、そしてこのアフガンの騒乱で犠牲になった多くの人々を弔う道でもあろうと信じている。


関連地図
2008年度の概況

◎無政府状態のアフガニスタンとパキスタン北西辺境州
 2008年度は、前年度の混乱がさらに拡大、とくに地方に於いて政府は事実上権力を失った。米国の方針転換に一(いち)縷(る)の望みを託していた人々は、より大きく、より複雑な情勢悪化に戸惑っている。外国軍がうちだした「新戦略」とは、反政府勢力の分裂工作と謀略で、これまで死角になっていたパキスタン北西辺境州への積極的な戦火拡大であった。

 反政府勢力の一部に米軍から巨額の資金と武器が流されていると現地の人々は信じている。実際、パキスタンの国境地帯、バジョワル自治区では、住民退去勧告が出される数カ月前に、米軍が「自衛のため」3万丁のライフルを配布している。

 この結果、各派が入り乱れて抗争が激化し、かつて「タリバーン」と呼ばれた勢力は、殆んど見わけがつかなくなっていると言ってよい。他方で無人機による国境地帯の爆撃が頻度を増し、パキスタン側は多大の迷惑をこうむっている。犠牲者は殆んど民間人である。

2008年夏、既に「住民退去勧告」が出されたバジョワル自治区を皮切りに、国境地域の人々は続々と避難民と化した。2009年6月現在、その数は300万人以上だと発表されている。

 一連の流れを眺めれば、この混乱は明らかに意図的に作り出されたものだ。一例をあげれば、2009年春、ペシャワール近郊で起きたモスクの爆破事件がある。「自爆テロ」と発表されたが、目撃した職員たちは、間違いなく爆撃の跡だと証言している。その他、タリバーン勢力が嫌うビデオ店や女学校の爆破・襲撃は、どこまでがタリバーンで、どこまでが謀略なのか分からなくなっている。敗戦後の日本で起きた三鷹事件や松川事件を思わせる。かなりのものが外国軍の謀略だと現地の人々は考えている

 誰がどんな画策をしたのか、推測の域を出ないが、動かせぬ事実は、反乱があるから外国軍が進駐したのではなく、外国軍が進駐してから混乱が広がったことだ。これはいくら強調しても過ぎることはない。いったい、「テロリスト」とは誰なのか。テロリストを相手に大軍を繰り出すことが対策なのか。本当にアフガニスタンが「テロとの戦いの主戦場」なのか。人々は懐疑的であると同時に、膨大な犠牲に疲れ切っており、あらゆる武力干渉に敵意を抱いていることを肝に銘ずるべきである。欧米軍は敵を混乱させるのに成功したかもしれないが、より大きな破局を準備したとも言えよう。
 この動きの中で、2008年8月、日本人職員・伊藤和也君の殺害事件が起き、アフガン人職員に対する脅迫が続いているが、混乱に乗じた強盗・殺人、身代金目当ての誘拐が増える中、真相は明らかではない。
◎パキスタン北西辺境州の内乱

 アフガニスタンと隣接する北西辺境州とペシャワールでは、事態はより深刻である。2007年夏に始まる自治区の反乱は、他地域にも拡大し、パキスタン国家解体にもつながりかねない勢いを見せている。「対話路線」を掲げて権力の座についた現パキスタン政府は、米軍と反乱軍との間で揺れ、結局、大規模な出血を強要された。ワジリスタンに次いで、スワトやコハートなど、至る所で市街戦が展開し、ペシャワールは戦火を避けて避難する人々の群れで溢れている。2009年4月、その数は200万人とされたが、6月現在「最低300万人」と発表された。

◎アフガン復興と国際社会

 民衆にとって、政情以上に脅威なのは、食糧不足である。2006年の段階で「食料自給率60%以下(WFP=世界食糧計画、発表)」とされたが、欧米側は徒(いたずら)に軍事力強化を図ることに終始した。
 欧米軍のPRT(地域復興支援チーム)の実態は、軍事活動を円滑にするための宣撫工作と言えるもので、少なくともPMSの活動するニングラハル州では、弊害が目立っている。実態は日本で知らされているものとかけ離れている。良心的な国際団体は、軍事活動に巻き込まれる危険性を強く訴えているが、その声が届いているとは言えない。

 PRTは2002年、米軍によって作られた。「米軍民政局」と言えるもので、初めの頃、診療所で薬品を配ったり、ワクチン接種を行うのは欧米軍兵士の役目であったが、最近は方針転換し、直接矢面に立たなくなっている。ニングラハル州ではUSエイド(アメリカ国際開発局)が資金供与団体となり、地域復興に必要と思われるプロジェクトを地方政府を通して支援している。
 問題は、立案の段階で調査を十分に進めず、書類審査が中心となっていることである。米軍の中にも良心的な者はいるが、結局、政府の役人と現地請負師との山分けとなり、実があがらない。政府内の実力者たちは、しばしば軍閥と関係があったり、自ら請負会社を抱えていることもある。

 PMSが行っている水利施設現場にもPRTの影が現れ始めている。2009年2月、「養魚池計画」でマルワリード用水路の溜池(D池)を借りたいとの申し出があった。しかし、PRT側が指定した溜池は重要な沈砂池で、水量調節に欠かせぬ場所である。猛反対の末、住民たちの圧力を背景にこれを拒否した。その後、怪電話や脅迫めいた噂が流されたが、棚上げになったまま現在に至っている。 ある取水口改修現場では、ボロボロになったコーランが数冊、ずだ袋の中から見つかった。穴があいていたり、無造作にちぎられていた。現地では大変なことである。作業員が周辺の土くれもていねいに拾い集め、モスクで「供養」を行った。本当のことは分からないが、これも「PRTの仕業(しわざ)」ということになった。これは一例にすぎないが、PRTと欧米軍の活動は、住民たちの間で同一視されているのは事実である。

◎現地活動への影響

このような情勢の中で、われわれの活動も大きく制約を受けた。

1. ペシャワールの無政府状態で、カイバル峠の往来が困難となり、PMS病院の運営管理が事実上不可能となった。PMSの主力はジャララバードで孤立していると言える。予測していたことではあったが、これほど急激な変化はかつてないことであった。  ペシャワールを本拠地とするPMS病院が、「難民救済団体」として合法性を得ていたため、パキスタン政府の定めた期間(2009年12月まで)内に、ジャララバード側へ移転を迫られていた。しかし、北西辺境州は内乱そのものであり、アフガン難民どころではなくなってきたというのが真相で、速やかな対応が要求された。

2. 脅迫や外国団体職員の拉致が多発、2008年9月から、地元警察や住民と協力して自警団を作り、職員を守る態勢を敷いている。伊藤和也君の事件は大きな波紋を呼び、9月日本人ワーカーの漸次引き上げとなった。報道が与えた印象ほど危険な治安状態ではなかったが、このために職場が一時混乱した。

3. 大都市を離れると殆んど中央の権力が届かず、地域共同体との絆が更に大きな比重を占めるようになっている。地方行政機構の中には軍閥の影響力が強く、時には直接軍閥と交渉せざるを得ない局面もある。また、ニングラハル州北部全域にわたる水利施設の管理は、現政府の状態では無理であり、PMSが全面的に協力態勢を敷かざるを得ない事態である。


2008年度の現地活動の概要

波瀾は多かったが、事業は継続された。

通水を待つガンベリ砂漠横断水路
23.3km地点。下写真は、通水後である。

医療事業はPMS病院が危機に瀕する一方、アフガン側のダラエヌール診療所は安定してきた。 用水路事業は、ペシャワール会始まって以来、最大の工事となった。2007年4月に第1期13キロメートルを完成、連続して第2期工事11キロメートルに入っていた。近づく破局を想定、相当な努力で進められた。 しかし、第1期工事を上回る難所の連続で、かつ他地域の取水口改修などをしながらの工事であったので、難航を余儀なくされた。

ガンベリ砂漠を横断する水路へ通水。
蛇籠を置いていない左側は土石流を取り込む池になる(約22km地点)
しかし、2009年6月15日、最後の難所を越えてガンベリ沙漠に到着、灌水が始まった。工事は間もなく24.3キロメートル全工程を完了する。
 農業関係では、日本人ワーカー引き上げで中断していたが、ガンベリ沙漠に250ヘクタールの土地を確保、間(ま)もなく開墾が始まる。これまでの試験農園の成果がここで生かされることになる。
 マドラサ(伝統的な寺子屋)の建設は、2008年4月に着手され、2009年6月、主要工事を殆んど終えた。 井戸事業は、2008年12月、廃止された。これは、ガンベリ沙漠の開拓団住居(約1200人、120戸)の建設を急いだためで、自立定着村の構想に統合されたものである。

1.医療事業

 ペシャワールのPMS病院が困難な事情を抱える中、ダラエヌール診療所はアフガン人医療職員の帰還で、かえって充実した。2008年度はPMS基地病院を中心に、ダラエ・ヌール診療所と併せ、延べ73,149人が診療された。 一方ペシャワールの病院は、2007年4月にパキスタン政府から出された事実上の閉鎖要求以後、結局「2009年12月に難民を完全に帰すまで存続し得る」という許可を得ていた。
 しかし、PMS周辺をとりまく情勢は厳しい。2009年度のうちに大きな動きが求められる。緊急に求められているのはハンセン病診療の場である。
 現在、ジャララバードに小さな診療所を設置する計画が進められている。少なくとも患者診療については、患者たちが国境を意識しているとは思えず、考えられるほど大きな影響が出ることはない。



ガンベリ砂漠手前のQ4池への送水直前のQ3池。水を求めて
牛や子供たちが集まってきた(2009年6月)
2.水源確保事業

@ 用水路建設
 2003年3月に着工した用水路は、2007年4月、4年の歳月をかけて第1期工事13キロメートルを完了した。第2期は6.8キロから最終的に11.3キロに延長され、工事は最終地点にさしかかっている(全長24.3キロ)。これは、諸般の情勢から、早期完成を目指し、ガンベリ沙漠横断の第3期工事を全て第2期工事に含めたためである。

  2009年6月、最難関の20〜21キロ地点を突破、沙漠横断路3.5キロのうち、1.2キロまで開通させた。全工程24.3キロを終え、開通を宣言するのは7月中旬となる。なお、終点はガンベリの自然土石流路(普段は涸れ川)に落とされ、急流をなしてクナール河に戻る。

通水直後。子供たちは家から持って来た食器や鍋釜を
洗い始めた(2009年6月)
◎湿害対策と分水路

 既存水路と新水路との間には、当然湿害が発生する。このため、2009年3月から6月まで、放置されていた広大な湿害地の排水設備を復活させ、以後湿害の問題はなくなった。分水路は、この6年間で10.3キロが整備された。

◎植樹

 植樹の目的は、@水路工事の一部である柳枝(りゅう し)工、A土手の保護、B土石流の緩流化、C防風・防砂林の造成で、約20万本が植えられた。木の成長は早く、第1期工事の地帯は水路沿いに並木道が伸びている。植樹なしに水路の保全は考えられない。

◎他の用水路の取水口建設

 最近の気候変動は、アフガニスタン全土で大きな影響を与えている。即(すなわ)ち、雪解けと洪水が早めに訪れ、最も農業用水が要る時期に、渇水期が始まるのである。マルワリード用水路があるクナール河沿いでは、増水のピークが5月下旬から6月上旬に集中、その後急激に河の水位が下降する。このため、大河川沿いの耕地もまた、大きな被害を受けている。 われわれが初め手本としたシェイワ用水路は、2005年から深刻となり、一時は完全に水が途絶えた。その他の隣接する用水路も同様で、PMSが取水堰(ぜき)の方法を会得すると、次々と支援が行われた。2008年は、各地域で取水口建設が行われた。

 ベスード用水路 2007年〜2009年
 シェイワ用水路 2008年
 カマ用水路   2009年

 それぞれの灌漑(かんがい)面積は、ベスード3000、シェイワ1200、カマ7000ヘクタールである。 われわれの用水路建設は、隣接地域にも恩恵を及ぼし、ニングラハル州北部農村地帯で沙漠化を免れた地域は1万ヘクタール(100平方キロメートル)を優に超える。殊にカマ郡では、2009年夏の作付けの六割以上が米であり、同地域始まって以来だと言われる。

 一般に取水堰の建設は膨大な石材を必要とするが、資機材と労働力は全てマルワリード用水路の建設費に含まれている。紙面を借りて会員・支援者の方々に明らかにしておきたい。この地域がPMSの独壇場となったのは、われわれが優れているからではない。それほど旱魃(かんばつ)問題に関心が薄く、他にやるものがいなかったのである。 水は人々の生命線である。「もし、ニングラハル州北部農村が壊滅していれば、ジャララバードもまた、失業者と避難民で溢れ、カンダハルと同様に血なまぐさい騒乱の渦中に投げ込まれたであろう」とは、事実を知る住民たちの実感である。

 誰でもよい。国際支援の関心がつまらぬ政治的駆け引きや、無益な戦争を離れ、人々の生活と生命に向くことを期待する。 第2期工事の詳細は別表に譲る。

A井戸事業

 2007年4月に飲料水源は1550ヶ所を超えたが、2008年は学校、モスクなどの公共施設だけに絞り、2008年12月、井戸事業を水路事業に統合した。これは、次に述べる自立定着村建設が急がれるためで、新たな村の飲料水源に集中している。2008年6月現在、18カ所のボーリング井戸がガンベリ沙漠に建設された。また、同沙漠の岩盤地帯の水路沿いには、浸透水(湧水)を利用して清潔な飲料水源を得る試みが行われようとしている。

3.農業関係

 2008年8月26日の伊藤和也君の事件で、日本人ワーカーの退去は早まったが、共に働いた農民たちが作業を継続している。間もなく大がかりな開拓事業が始まると、それまでの成果を大々的に生かすことができよう。食糧生産の向上を本格化、水路事業と事実上一体化されようとしている(6年間の農業事業については、この秋高橋修氏の編集による詳細な「報告集」が石風社より刊行される)。

砂漠への通水を祝う為に現場に来たダラエヌール診療所の職員たち。O分水路(シギ分水路)の末端近くの砂地で初めて収穫できたスイカ畑を見学した。



建築中のマドラサ(伝統的な寺子屋)
4.ワーカー派遣

 2008年度は、別表(8頁)のワーカーが事業に参加した。不幸にして伊藤和也君を失ったことは、悔やんでも悔やみきれないが、心からご冥福を祈りたい。予想できなかったのは、ペシャワール側の急速な情勢悪化で、2008年10月までに、ジャララバード・ペシャワール共に全員が現場を離れた(その後松永、村井が会計処理のため、藤田看護師がペシャワール病院問題のため、短期派遣された)。



完成目前のモスク(2009年6月)
『中村医師のメール報告』で詳しく見てみる!>>>
5.マドラサ建設

 マドラサはアフガン農村共同体の要(かなめ)である。2007年12月鍬(くわ)入れ式を行い、本格的工事が2008年3月から始まった。2009年6月現在、校舎(教室12、図書室1、教員室2)及び付属モスク(800名収容)の主要工事を終え、内装の段階である(マドラサの備品購入費として、伊藤君のご両親から「伊藤和也アフガン菜の花基金」が寄せられた)。設計と施工はPMSが全て自分で行った。2009年9月に正式に開校する。

自立定着村 居住区。各戸区画壁建設中
2009年6月
6.自立定着村の建設

 水路建設事業は小さな民間団体にとっては、大きな仕事であったが、2009年7月を以って完了する。
 しかし、これで終わるわけではない。15万人が生活する用水路の保全は、世代から世代へ、長い年月がかかる。マルワリード用水路建設の主役は近隣農民であり、改修の実を心得ている。幸いと言うべきか、不幸にと言うべきか、水路の恩恵に浴さなかった人々は、まる6年間現場監督や作業員を務めてきた。彼らをガンベリ沙漠開拓に充(あ)てて自活させ、かつ水路保全の役を担ってもらうという構想である。出来あがる直前のマルワリード用水路には、彼らの強い愛着がある。これまでと同様、その送る水で、文字通り生活の糧を得るなら、喜んで役に就くだろう。

 これは2007年度からの構想で、2008年12月、水路開通の見通しが立つや、直ちに居住地の建設が開始された。現在118家族、約1200名分の住居を建設中である。募集は水路が開通してから行い、早ければ一部の土地にトウモロコシの作付けが開始される。 なお、開拓地は250ヘクタールを確保、ダラエヌール試験農場の実戦版と考えて差し支えない。現在、漠々たる荒野であるが、これが緑の田園に変わるのを疑う職員はいない。

建設中の居住区(写真中央)の右に順調に成長しているガズは防砂、防風の為に植えられ、居住区の左に砂漠横断の水路が並行している。2009年6月撮影
7.2009年度の計画

 事業は基本的にこれまでの連続で、目新しいものはない。年度報告に述べた。医療面ではハンセン病診療の場の確保が懸案で、水路事業は自立定着村の確立が大きな目標である。

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