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自然の定めの中で人が生き延びる術を提示
~カマ第2取水口通水、ベスード護岸4キロメートル


PMS(ピース・メディカル・サービス・ジャパン=平和医療団日本)院長
ペシャワール会現地代表 中村哲
ペシャワール会報107号より
(2011年04月18日)

通水直後のカマ第2用水路、手前に新設した水門がある
 みなさん、お元気ですか。

 大震災の様子がアフガニスタンでも逐次報道されていますが、みな日本がいったいどうなるのか、不安と同情を隠しません。日本の震災犠牲者に対して一般のアフガン人の同情が並みのものでないことは、彼らの表情で分かります。悲しみと悔やみの声を張り上げるでもなく、まるでわが子を失って茫然として いるような、そんな悲しい眼差しで語ります。

 遠いアフガニスタンと日本。しかし、その遠さにもかかわらず、それだけの想像力を働かせられるのが不思議な気がします。過去、多くの肉親を失い、ひどい難民生活を余儀なくされ、累々たる屍の山を見てきた者は寡黙です。大げさな表現や通りいっぺんのお悔やみの言葉、巧みな議論や政治の話が、いかに 虚しいかを知っているからです。

 それでも、仕方なく日々の営みに追われるのは何処も同じで、働いて家族を養い、食べてゆかねばなりません。常々、ほとんどのアフガン人の願いは、「三度のご飯、故郷での平和な暮しだけだ」と述べてきましたが、日本の現状を遠くから見ていると今や他人事ではなく、複雑な思いがしております。 「現地から見た大震災」を述べようかとも思いましたが、小生も大方のアフガン人と同様、何もことばが浮かびません。ここはいつも通り、こちらの仕事の経過をありのままに伝え、励みにしていただきたいと思います。


カマ取水口の完成

 さて、カマ用水路についてはこれまで詳しく述べてきましたが、去る3月21日に事実上竣工しました。3月30日に、地元の人々が吾々PMS(ピース・メディカル・サービス・ジャパン、平和医療団日本)を招き、内祝いが行われました。みな震災のことを気にして、派手な催しを避けましたが、嬉しさに溢 れていました。公の発表は行政側の都合で延期され、4月初旬に式典が行われます。アフガンでも日本でも暗いニュースが続く中、「カマ取水堰完成」は、少なくともアフガン東北部では、圧倒的な希望を与えるものでありました。それだけでなく、私たちが過去八年間、試行錯誤を重ねて得た努力の、頂点と云え るものだったのです。


難関カマ取水口と干ばつ


カマ第2取水口の通水を見守る中村哲医師(左)と、現地スタッフ

 カマ郡は人口30万人、耕作地が7,000ヘクタール、東部アフガニスタンの一大穀倉地帯です。かつてジャララバードの南に広がるスピンガル山脈の麓が、アフガンで最も豊かな農業地帯を成していました。アフガンの生命線は水です。豊かな農業国を支えていたのは、高山の万年雪でした。冬の積雪が絶えず万年 雪を補充し、夏に少しづつ解ける雪がこの一帯を潤していたのです。その万年雪が、近年、次第に減ってゆき、スピンガル山麓は60数年前から、波状的な大干ばつに襲われました。

 長老たちの記憶に新しいのは1970年代に襲ったもので、ダウード政権の頃でした。この時は国家的な規模で対策が講ぜられ、難局を切り抜けました。実際、私たちが古い水利施設を見ていると、この時期に作られたり、改修されたりしたものが非常に多いのです。 だがこの頃を境にして、パキスタンへ多くの者が出稼ぎ難民として逃れゆくようになりました。おそらく、人口増加と農地の乾燥化が、主に中小河川流域で、徐々に進んでいたのではないかと思われます(前後してクーデターによる王政打倒、続く政情混乱、ソ連軍侵攻が起きます。隣国では第2次インド=パキスタン戦争があり、両国とも混乱の尾を 引いています)。

 しかし、2000年に顕在化した干ばつは、ダウード政権時代のものを遥かに上回る規模でした。WHO(世界保健機関)を初めとする国際機関の訴えにもかかわらず、国際社会は逆に援助を引き上げたのです。その後の経過については、ここで繰り返す必要はないでしょう。戦乱はますますひどくなり、人々 の生活は更に悪くなりました。

 干ばつもひどくなっています。かつて栄えたジャララバード周辺農村はことごとく壊滅に陥りました。地下水が下がり続け、廃村が広がっていきました。その上、乾燥化と並んで、大きな洪水が起こりやすくなりました。 これは、温暖化のためで、巨大な貯水槽だった高山の雪があっという間に溶けてしまい、 洪水が過ぎると今度は著しい乾燥状態になってしまいます。その状態が年々激しくなってきています。

 40年前のダウード時代は、今よりは恵まれていました。東西の国際援助合戦があり、政権自体も、農業によって国を興して自存する、独立の気概に満ちていました。カマの取水口は、このダウード時代、旧ソ連の援助で建設が試みられたようです。しかし、クナール河の猛威は、直ぐにこの大規模な工事を台 無しにしてしまいました。

 クナール河はインダス河の支流で、ヒンズークッシュ山脈東部から水を集めます。地元民は、この河を「レワネイ・スィンド(狂った河)」と呼びます。その流域面積は九州の数倍あり、一大急流河川です。問題は、取水門や水路の構造ではなく、取水堰にありました。夏の激流が、取水門から伸ばした堰上げの 突堤を、いとも簡単に流し去ってしまうのです。

 ソ連を皮切りに、その後歴代政権が改修をくり返してきましたが、どれも成功しませんでした。理由の一端はこの災害に対する無関心にありましたが、技術的なことも大きな点でした。ロシアや欧米諸国のように平野が多い国と、アフガニスタンのような山の国とでは川の状態が違います。水門や水路がいくら 立派でも、取水堰が不適当であれば、激しい流れで崩されるだけでなく、河の深さや形を変えてしまい、冬の水が取り込めなくなってしまいます。

 こうして悪循環をくり返しながら、カマ地方は次第に荒れた土地になっていきました。生活できなくなった農民たちは、次々とパキスタンに「出稼ぎ難民」として逃れ、一時は人口が半減したと言われています。カマ取水口建設は、ナンガラハル州全体の、最大の悲願となっていきました。


PMSの試行錯誤と日本の治水技術


クナール河の主流河道回復工事
 一方、私たちPMSでは、2003年に全長25.5キロメートルのマルワリード用水路建設に着手していました。だが、私たちもまた「取水技術」の壁に突き当たっていました。

 ダムを作るような大工事を行えば、取水は簡単にできるでしょう。でも、そんな資金はないし、仮に出来たとしても、お手本にはなりません。それに、ダム建設が弊害を伴うことも少なくありません。そんな大げさなものでなく、アフガニスタンのどこでも、誰でも、多少の資金と工夫で出来るものが理想的で す。

 解決は意外なところにヒントがありました。近世・中世日本の古い水利施設です。当然全て自然の素材を使い、手作りで作られたものです。セメントやレンガ、重機やダンプカーがふんだんに使える私たちPMSは、恵まれているはずです。更に急流河川が多いのも、アフガニスタンとよく似ています。PMS が日本の伝統工法に頼ったのは、決して偶然ではありませんでした。

 取水口と堰について云えば、福岡県朝倉市の山田堰が大きな手本となりました。筑後川もクナール河も、規模こそ違え、ずいぶんと暴れ川です。調べれば調べるほど、これ以外に方法がないと思いました。しかし、ダンプカーや簡単な重機があるとはいえ、初めに考えたほど生易しいものではなく、マルワリー ド用水路の場合、6年の改修をくり返しながら実現しました。その成功の経験が難関のカマで生かされました。

 カマには2つの取水口があり、第一取水口が3箇村・人口5万人、1,500ヘクタールを潤し、第二が50数箇村・人口25万人、5,500ヘクタールを潤します。

 問題は最大の第二取水堰にかかる夏の激しい流れを、いかに和らげるかでした。このため採用したのが河を分割して処置することです。この点で、山田・大石堰ら、江戸時代に確立された「斜め堰」もまた、更に遡る時代にヒントを得ています。武田信玄らが行った「河道分割処理」の技術が、明らかにその源流だ と言えるでしょう。これは、手に負えない河の水をいくつかに小分けして、それぞれを処理するものです。

 カマ取水口では、上流側の第一堰を乗り越える水量を約半分以下に落として、分流の1つとし、それがそのまま第二堰を越えるように設計しました。実際の方法は、河の中にある島(砂州)を利用して流れを二分、取水口側と島の間を締め切って堰とし、越流水量を調整して、対岸側の流れとバランスを取るので す。

 この場合、堰上がりで対岸に被害が及ばぬよう、もう1つの分流も幅と傾斜を調整します。つまり、工事で余分に発生する水で洪水が起こらぬように流すことです。


改修工事を終えたマルワリード取水堰
 筑後川の斜め堰の場合も、同様な方法が採られています。今は古い図面でしか窺えませんが、「河床の全面堰上げ」と云っても、厳密には「複数の堰の並列」という方が正しく、実際には「取水用の堰」、「舟通し」と、いくつかに分かれています。特に筑後川では、幕府天領の日田から大川まで舟運が盛んで、「舟通し」という分流なしに幕府から許可は下りなかったはずです。さらに、それでも洪水を防げない場合は、「遊水地」に溢れさせる設計になっています(この点で現在の山田堰は、過去の構造と多少異なっていると思えます)。つまり、危ないところには初めから人を住まわせず、自然の都合を優先しています。

 かくてカマ取水口は2008年12月に着工、翌2009年2月に仮工事を完了、先に述べた河道分割処理、斜め堰造成を行い、年間の変化を見ていました。取水口と取水堰は、洪水にも渇水にも耐えるものでなく、なるべく長い期間の観察を必要とするからです。

 自然の変化は1年間眺めただけでは分かりません。予測できぬ変化が沢山あり、そのつど適切な手を打たねば大変なことになるからです。例えば、河の水位1つとっても、そうです。数百年に一度の洪水と言っても、それは過去の出来事から推測した確率の数字であって、それに安住はできません。「百年に一度」が明日かも知れないし、200年後かも知れない。まるで博打のようにあやふやな基準で私たちは生きていないでしょうか。

「治水」という言葉は、英訳できません。おそらく、自然観が違うからです。和英辞典ではflood control と出ていますが、どうも響きが違う。推測ですが、昔の日本人は自然を畏怖の対象にしても、制御したり征服すべきものとは考えなかった。治水にしても、「元来人間が立ち入れない天の聖域がある。触れたら 罰が当たるけれども、触れないと生きられない」という、危うい矛盾の限界を意識していたと思われます。その謙虚さの余韻を、「治水」という言葉が含んでいるような気がしています。だから、工事責任者は必ず神仏に祈り、人柱となることも辞さなかったのでしょう。最近になってよく分かるようになりました。


大洪水とJICA委託事業


ベスード地区の連続堤防。昨年の大洪水で村や畑が水没した

 河川工事の期間は限られています。水位が下がる晩秋から早春までで、間に合わないと1年待たねばなりません。2009年夏が無事に過ぎ、同年11月から翌2月まで多少の改修を施し、第二堰の水門・水路改修だけをやれば何とかなると信じ込んでいました。2010年夏、この思い込みが微塵に砕けました。大洪水の到来です。7月30日、長老たちの昔話や岩盤の水の痕跡などを基にして、安全レベルを決めていたのに、それを易々と乗り越える濁流が第二カマ用水路の中に流れ込み、対岸のベスード郡を襲いました。

 現在までアフガンでは、取水量を川際で調整する方式は一般的でなく、いったん取り込んだ過剰な水を村に着く前に川に捨てる方式です。流入した水は異常な量で、排水施設の機能を超え、あわやカマ下流域が水没寸前となりました。必死の突貫工事で余水吐きの直前で、用水路土手を切り崩し、危機一髪で難を 逃れました。

 この1週間前に偶然、現場視察に来ていたのが、JICA(国際協力機構)アフガン所長でした。ともかく公的な立場の人で現場を実見して、技術者として理解した日本人は、同所長が最初でした。現場を重視する者は、どんな立場の人でも実際的です。PMSが逼迫した財政で完成を目指していることを知る と、復興支援の一環で協力がありうることを知らせてくれました。厚意をありがたく思いました。

「これまで募金だけでやってきたからこそ、自由に実のある仕事が出来てきた。これからも方針を変えないが、河川工事は改修を重ねるうえ、膨大な物量が要る。PMSは確かに壮大な挑戦を行ってきたが、全アフガンに展開するのは不可能だ。将来を見据え、良心的な人となら誰とでも協力すべきだ。美談ではな く、困ったアフガン人が1人でも多く助かることが主眼であり、日本人としての節と気概を共にすべきだ」と思いました。

 こうして最大の残余工事、カマ第二堰と取水門、主幹水路1キロメートルを「委託事業」として実施できる期待が高まっていました。そこに大洪水だったのです。

 8月14日に第三波の洪水がひき始めるのを待ち、直後に交通路敷設を開始、秋の工事の準備に取り掛かかりました。これまで財政の心配で秋冬の限られた工期の準備が遅れ、苦杯をなめたことが一度ではありませんでした。

 それに今回は、大洪水の被害が既設のマルワリード用水路の至る所に及んでいました。取水堰が壊れ、土石流の横断箇所の至る所で大小の決壊が起きていました。PMSが手掛けたシェイワ取水口では河道が変化して取水困難となりました。開拓中のガンベリ沙漠では、猛烈な鉄砲水で異常な水量が排水路を下 り、排水施設の見直しと全面改修が求められていたのです。


技術の粋・職員の気概

 こうして、2010年夏に開始されたPMSの仕事は、過去28年の現地活動で最大規模となりました。年度内に完成せねばならぬ主な河川工事は以下の通りでした。
・2つのカマ取水堰・主幹用水路の完成
・対岸ベスード郡の護岸4キロメートル
・マルワリード取水堰の復旧
・ダラエヌール土石流路の浚渫
・シェイワ取水堰の河道回復
・ガンベリ沙漠開拓・排水路全面改修
・ガンベリ隣接の湿害地処理の拡大

 日本側のペシャワール会は腹をくくり、募金活動に全力を挙げました。万一の、公的資金を返却せねばならぬ事態も想定、底を尽きかけた財政回復が最大の課題となっていました。

 一方アフガン側のPMSでは、住民たちの期待を一身に背負い、作業の効率化に力が注がれました。組織の思い切った簡素化、勤倹節約を掲げ、「日本の善意を無駄にするな」が合言葉となり、ジャララバード事務所の非常態勢が敷かれました。

 いったい半年でこれだけの事が出来るのだろうか。誰もがそう考えましたが、60万農民の命運がPMSに掛っており、事業放棄は論外でありました。やらねば組織解体も辞さずとの背水の陣でした。こうなれば、もはや国家的事業です。おまけに治安が悪化の一途をたどる中、一民間団体たるPMSが手掛ける ことに疑義をはさむ意見さえ日本側から出され、哀しく思うこともないではありませんでした。これは少数意見ではありましたが、無政府状態で国家の手が既に及ばなくなり、多くの人々が飢餓に直面している事情は、日本で正確な理解を得るのが困難だったのです。

 しかし、勝算がなかった訳ではありません。初秋までにカマ工事現場の交通路敷設、予測される機械力の算出と貸出業者との契約、住民対策、石材の採取・輸送、施工順序の立案など、準備を周到に行い、クナール河の水の低下を見ると同時に、先ずは比較的小規模な工事から始めました。要は、作業地の分散を 極力避け、機械力と労働力を集中的に運用することです。

 仕事のピークを真冬の最も水位が下がる時期に設定し、最大の物量を要するベスード護岸とカマ取水施設建設工事を短期決戦で片づけ、増水期でもできることは後回しで考えました。相手が人間なら取引もできますが、自然と交渉することはできないのです。


成長した ガンベリ沙漠の防風林。左手は居住区の基礎

 職員たちの士気の高さ、8年間実戦で鍛えた技術が大きな原動力となりました。2003年にマルワリード用水路建設が始まった頃に比べると、コンクリート打設、鉄筋作業、蛇籠生産と設置作業、植樹、盛り土などの手作業、ダンプや重機の誘導、水盛りによる測量、あらゆる面で熟練工の域に達していた500名の作業員が居ました。特に2008年8月に日本人ワーカーが一時全員引き揚げた後、強い責任感を持つようになり、おそらくどこを見渡しても、これほど強力な建設集団はないと思われました。レンタル重機の運転手たちも、長年PMSの工事に従事してきた者がほとんどで、私たちのやり方を熟知していました。

 こうして、2010年12月から3ヶ月間、手持ち重機を合わせると、ダンプカー54台、掘削機11台、ローダー8台、削岩機2台、舗装用ローラー3台が常時稼働、作業員も全体で600名を超え、必死の作業が敢行されました。カマ取水施設、ベスード護岸、ガンベリ沙漠開拓、マルワリード取水堰改修、排水路整備が同時進行で回転していたのは殆ど奇跡的と思えました。

 しかし、さすがに40キロメートルにわたる戦線の監督は出来ません。旧ワーカーの鈴木学がカマ第二取水施設に張り付いて指揮を執り、ジャララバード事務所会計で村井が奮闘しました。彼らが居なければ、この半年を無事に過ごせなかったでしょう。初めは現場に多くの日本人を置くつもりでしたが、情勢がこの2~3年でずいぶん変わっており、異なった事情が分かるまで時間がかかります。邦人派遣のマイナス面を危惧し、少数に絞りました。身辺保護は、決して武装警護をつけることだけではありません。敵を作らぬこと、毅然たる完全中立を厳守すること、そして誰が見ても良い結果を生むことです。そのために費やされる水面下のエネルギーは膨大なものがあったのです。

 住民たちの協力はぜひ述べておかねばなりません。特にカマ長老会の決定が威力を発揮しました。カマ郡はパシュトゥン民族のモハマンド部族で占められ、地縁・血縁が強固です。無政府状態のアフガン農村で最大の秩序を担うのが地域の長老会です。

 農村秩序は、この10年間、特に大都市周辺で、欧米軍の買収工作と武力威嚇、軍閥の跋扈などで緩みが目立っていましたが、カマ郡は例外的でした。「ひと冬分の小麦収穫を潰してもよいから完成していただきたい」と申し出ました。

 飢餓線上にある貧しい農民が多い中で、この決定は容易ではなかったと思います。当方もその熱意を汲み、作業にさらに熱が入りました。結局、昨年完成していた第一取水堰が健在で、あまり水が要らない小麦栽培に影響は出ませんでしたが、住民と一体になった協力が大きな推進力になったことは言うまでも ありません。

カマ取水堰完成の意義
 ローマは一日にして成らず。その通りだと思います。長い地味な積み重ねの過去の上に、現在があるのだと思いました。紛れもなくPMS活動の頂点がこの半年間に集約され、力を発揮しました。「カマ取水堰完成」は奇跡的な壮挙として地元で報ぜられましたが、実は奇跡ではありません。健全な人間の感性が組織され、共感が共感を呼び、今回の成功につながったのだと思います。言葉ではなく、確かに厳在する良心が行動を以って動き出すとき、語らずとも訴えかける何ものかがあるのでしょう。

 2011年1月15日、懸案のカマ第二取水口で試験通水が成功し、これにてカマ全体への送水可能量は1日100万トン、全域が救われました。難民化していた15万人もの人々が続々と帰農し、安定した食物が保障されました。世代から世代にわたる長い悲願の実現を目前に、皆が喜びをかみしめています。  対岸のベスード護岸4キロメートルも3月19日、冬の基礎工事を間一髪で終え、浸水の危険はひとまず去り、同時に夏の洪水対策(護岸のかさあげ)に取り組んでいます。一方、別部隊はガンベリ排水施設に集中し、最後の洪水対策が行われています。なお、危うい場面もありましたが、重症と死亡者は出し ませんでした。

 最後に、この取水口の最も重要な意義は、沙漠化という避けることのできない自然の定めの中で、人が生き延びる新たな術を提示したことにあるのではないかと思います。これまで一般に行われてきた取水技術が最近の気候変動に追いつけず、そのため食糧生産が低下しています。アフガニスタンは戦争では滅びませんが、渇水によって滅び得るでしょう。だからと言って、手をこまねいて眺めるべきでしょうか。人は生きることを許されているし、相応しい恵みも与えられています。私たちの活動が、人間と自然の関係を問い直し、人の分に応じた自然の恵みを顕わし、望みを分かち合えることを祈り、感謝を以って長い報告を終えたいと思います。


 日本から衝撃的な大震災のニュースが伝えられたのは、このような作業のただ中でした。その後、膨大な犠牲者が明らかとなり、原発事故が連日アフガニスタンでも報道されています。

 今は多くを語ることばがありません。しかし、私たちの現地活動から見えるものもあります。どんなに時代や地域が異なっても、人間の変わらぬものは変わらない。その事実をかみしめながら、人々の無事と復興を心から祈っております。


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