難工事乗りこえ、用水路ついに通水
「非常事態」を宣言

PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長
中村哲
ペシャワール会報79号より
(2004年04月14日)

ホイールローダを使った作業中の
現地作業員と石橋ワーカ(右)
みなさん、お元気でしょうか。昨年12月以来、殆ど水路建設現場につめていました。再々会報などでお伝えしたように、取水口と堰の工事が最大の山場を迎えていたからです。

クナール河はヒンズークッシュ山脈最大の川で、河川敷が1キロメートル以上、最高峰の連山の雪解け水を集め、春先に洪水のような水量が押し寄せます。川の水位が下がる冬季に取水口の工事を済ませないと、1年完成が遅れてしまいます。

このため、11月末に「非常事態」を宣言、突貫工事らしきものに入りました。「らしきもの」というのは、万事が良くも悪くものんびりした現地で、「突貫工事」など見たことも聞いたこともない人々が多いからです。昨年夏以来、現地・日本側共に奔走して重機をそろえ、レンタルを含めると掘削機(油圧ショベル・ユンボ)4台、ローダー2台、ダンプカー12台などがフル回転、PMS(ペシャワール会医療サービス)としては、これまでにない機械力を投入、600名の作業員と共に、文字通り「決戦」態勢でありました。

小生が何年か毎に「過去最大の挑戦」というせりふを述べてきたので、事務局の中には「またか」と思った方もあるかも知れませんが、今度ばかりは生きた心地がしませんでした。かつて十数年前、弾丸が飛び交う場面で仕事をしたこともありますが、今となっては大した苦労ではなかったように思われます。2001年の空爆下の食糧配給に劣らず、誇張なく、これほど緊迫した状況は生涯でありませんでした。


取水口工事現場の日本人ワーカ
(左より鈴木(祐治)、川口、鈴木(学)、
清宮、橋本、伊藤、小宮、大越、宮路)
(2004年2月)
水路建設に携わった日本人ワーカー16名、殆どが20代の若者たちです。強烈な陽射しと冷たい水の中で、現地の人々と一緒に、汗と泥にまみれて働きました。休日返上、朝は5時に起き、時には夜遅くまで、時には冷たい雨の中で必死の作業が続けられました。

直接現場に赴く者はダラエヌール診療所に寝起きし、或る時は現場監督、或る時は先頭で働く作業員、または重機の運転手として、よくそれぞれの持ち場を守りました。
この3カ月だけは医療・農業関係のワーカーたちも動員され、カーブルやカラチ、ラホールまで重機の購入に赴いたり、現場で働いたりしました。事務は事務で仕事量が膨大となり、会計、買い付け、事務所管理など、重責をよく果たしました。

アフガン人作業員たちもよく働きました。大半が旱魃でやられた村の人たちだったので、「水が来る」という希望もあり、士気が高かったと言えます。また、農民たち自身が優れた石工であり、岸壁の石積みや蛇籠(ふとん籠)の石詰めをたちまち習得し、石工不足の杞憂は苦もなく解消しました。蛇籠のワークショップで熟練工と言えるまでになったのも彼らでした。



貯水池(右手に見えるのはクナール河)
一人の殉職者もなく

人々はどうしても華々しい場面だけに眼を向けがちですが、日本では考えられない不便さの中で、資機材の調達や行政との折衝、地元民との交渉、どれ一つとっても、PMS全体の総力をあげた協力が必要でした。例えば、蛇籠生産に必要な針金の調達はパキスタンからの輸入に頼らねばなりません。これまで作られた約5000個の蛇籠に使われたワイヤが100トン以上、買い付けと輸送は全てペシャワールの基地病院が行いました。日本と同様、実に無数の協力が地下茎のように現場を支えていたことを強調したいと思います。それでも、診療はもちろん、井戸関係の仕事が大きな支障なく継続されたことは、奇跡に近く思われます。

ともあれ、3月7日、堰と取水口水門、貯水池造成、そこまで導水する2キロメートルの水路は一応の完成を見て通水確認、「非常事態」を解いて一つの区切りとしました。きっと現場で張りつめた気分が続いたからでしょう。3月中旬、一旦帰国して事務局で報告し終えた後、急に力が抜け、虚脱状態でぼんやりと何日も過ごしました。皆がそうでした。職員たちの一部が中途で現場を離れて続々と辞職しました。普段「技術者」を自負して立案に参加した者で、自然の出した答えで机上の空論があっさりと破れ、失意のうちに去った者もいます。小生は6キログラムの体重減少でしたが、誰もがやつれました。しかし、この張りつめた気合で、犠牲者を一人も出さなかったのではないかと思います(これ程の工事なら普通数名の殉職者が出ても不思議はないそうです)。



取水口の護岸の為にも沢山の蛇籠(布団籠)
が使われました
補修可能な伝統技術に固執

特筆すべきは、この水路が決して小生の発案ではなく、先人たちが築いてきた伝統技術の模倣である点です。コンクリートは水門の一部と架橋に使われただけで、殆どが現地で維持可能な伝統的技術が用いられました。肝腎の堰は、基本的に筑後川本流にある山田の斜め堰が参考になりました。詳細は割愛しますが、結果的に驚くほど似た構造のものとなりました。水路は底面幅4メートル以上、上部幅6メートル以上、護岸は高さ1メートルの蛇籠を二段重ねて水路壁とし、この上に土嚢を三段に積んでその隙間に沢山の柳を植えました。こうすれば、数年のうちに柳の根が水路をバスケットのように地下から包んで保護します。わずか2キロメートル区間に植樹された柳は、1万本を超えます。

水路は全長14キロメートルで、まだまだ先がありますが、今回の突貫工事で半分が出来たといえます。それは、現地で入手できる素材の使い方、重機の扱い、作業員の監督などに習熟し、土質や地形の理解を深め、人々の圧倒的な支持を得たからです。また、敢えて貯水池を水路に組み込んだのも、意味があります。流量の調節もありますが、日本で無数に見られる堤が現地で皆無に等しく、年々消えてゆく山の雪に代って今後重要な役割を果たすと確信されるからです。



蛇籠を重ねた水路壁と芽を出した柳
あらゆる「正義」が白々しく…

着工を宣言してからちょうど1年、3月7日午後3時半、600名の作業員、重機の運転手、水路関係のPMS職員全員が取水口現場に集結し、喜びを共にしました。偶然通りかかったニングラハル州知事が駆けつけ、素直に我々ペシャワール会と日本への感謝と喜びを述べました。職員の中には元タリバーン兵も少なからずいたはずですが、命の前には新政府派も反政府派もありません。全ての有数が無限大で割ればゼロになるように、どんなに人為の壁が厚くとも、圧倒的な自然の恵みの前では対立を解消する。

蛇籠の間から出てきた柳の立派な根
平和のカギはここにある。そんなことを実感させた幕切れでした。

昨年(2003年)11月の「米軍ヘリ銃撃事件」後、「水路現場飛行を避ける」という米軍側の約束にもかかわらず、今日もヘリコプターが、超低空でけたたましく頭上を過ぎて行きます。あらゆる「正義」が白々しく、何やら搭乗する米兵たちが哀れに思われてなりませんでした。

2004年3月7日取水口に集結した600名の作業員、重機の運転手、水路関係のPMS職員全員
作業は3月16日に再開、更に努力が必要ですが、これを支えてくれる日本の方々に報告すると共に、心から感謝します。

続けて79号仲地医師の記事へ>>
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