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悪化する情勢をよそに、
用水路は1500ヘクタールの灌漑を達成

PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長
中村哲
ペシャワール会報88号より
(2006年06月28日)
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2005年度を振り返って


砂漠化したクズクナール地域(2003年2月)
 「アフガン問題」は、知れば知るほど底が深い。旱魃対策に奔走するようになってから、更にその思いを深くする。伝わらぬ実情に不満を覚えるだけではない。ここに至って、地球規模の環境の激変、「グローバリズム」の名の下に進行する、グロテスクなカネ社会の膨張と都市化、そしてその結末を既にして垣間見る気がする。
この潮流が手っ取り早く富を求める欲望に支えられているとするなら、私たちは、先進諸国を動かす欲望の集積と対峙していることになる。そして、その一員たる自分自身とも対峙しているのだ。

2006年3月、上写真と同じ場所から。
灌漑用水路通水後、緑が復活した。

 侵される側の立場に立てば、暗い鬱憤が湧いてこないこともない。国益の名の下に戦争が正当化され、現地の無数の犠牲は顧みられることがない。「自由とデモクラシー」でさえ、戦争合理化の小道具に変質してしまった。「人々の人権を守るために」と空爆で人々を殺す。果ては、「世界平和」のために戦争をするという。いったい何を、何から守るのか。こんな偽善と茶番が長続きするはずはない。

 作業地の上空を盛んに米軍のヘリコプターが過ぎてゆく。時には威嚇するように頭上を旋回して射撃音が聞こえる。けたたましくも忙しいことだ。我々は地上をうごめくアリのように、ひたすら水路を掘り続ける。彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。彼らはいかめしい重装備、我々は埃だらけのシャツ一枚だ。彼らは暗く、我々は楽天的である。彼らは死を恐れ、我々は与えられた生に感謝する。彼らは臆病で、我々は自若としている。同じヒトでありながら、この断絶は何であろう。

 彼らに分からぬ幸せと喜びが、地上にはある。乾いた大地で水を得て、狂喜する者の気持ちを我々は知っている。自ら汗して、収穫を得る喜びがある。家族と共に、わずかな食べ物を分かつ感謝がある。沙漠が緑野に変ずる奇跡を見て、天の恵みを実感できるのは、我々の役得だ。水辺で遊ぶ子供たちの笑顔に、はちきれるような生命の躍動を読み取れるのは、我々の特権だ。そして、これらが平和の基礎である。

 元来人に備えられた恵みの事実を知る限り、時代の破局は恐れるに足りない。天に叛き人を欺く虚構は、必ず自壊するだろう。平和とは、単なる理念や理想ではない。それは、戦争以上に積極的な活力であり、我々を慰める実体である。私たちはこの確信を持って、今日も作業現場で汗を流す。

 今年度も、平和を願う人々の意を体し、荒野を緑野に変えることを以って日本の良心の気力を示したいと思います。現地事業はいよいよ佳境に入ってきました。ご支援に心から感謝したいと思います。


2005年度の概況

 ペシャワール会の活動は22年を経過した。振り返ると、2000年以降の6年間は、大旱魃、9・11、空爆、米軍進駐、復興支援ブームと、どの時期よりもめまぐるしかった。人々の往来が増え、カーブルを見る限り、華美な風俗が目立ち、携帯電話が普及し、大都市は交通ラッシュが目立つようになった。だが、アフガニスタンの政情は安定とは程遠い。「アフガン復興」の結末は、「銃剣に守られる平和があり得ない」ことを実証するかのように、混乱を年毎に増している。

 東部のジャララバードでもパキスタンから戻って住み着く人々が目立つようになった。しかし、都市に流入した旱魃避難民と同様、高物価が生活を追い詰め、かつてなく治安が悪化している。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、「アフガン復興」が始まって1年後の2003年2月、「パキスタン在住のアフガン難民200万人中、140万を帰した」と発表した。だが、実数は少しも減っていない。2005年秋、パキスタン政府は「アフガン難民・300万人」を訴え、悲鳴を上げている。都市貧困層の大半は、「アフガン復興」の恩恵に浴していない。

 他方、戦火は拡大している。殊にアフガン東部(クナール州、ザーブル州、パクティア州)では、年を追って空爆が増しており、軍事力の増強が図られている。アフガン進駐の米軍は、2002年の12,000名から、今や18,000名、加えて英軍が4000名を増派、NATO軍増強が検討されている。2005年は、それまでカーブルに留まっていたISAF(国際治安維持部隊)が東部地区に展開、カナダ軍などに少なからぬ死傷者が出ている。

 学校やモスクなどへの誤爆が相次ぎ、学童や市民の犠牲者も絶えない。これら一連の事態に対する人々の反応は、ジャララバードの暴動(05年五月)、カーブルの市街戦もどきの暴動(05年6月)にまで発展、戒厳令に近い布告が出された。人々は「米軍撤退は遠からず」と感じ始めている。05年10月、米軍当局は「5年後に撤退」との見方を示したが、行き先は不透明である。

 一方、大旱魃はなおも進行中である。05年春の降雨・降雪は一時的な希望を持たせたが、6月の異常気温で逆に大洪水を招き、河川が氾濫、食糧生産に更に打撃を与えた。06年冬は異常な少雨に見舞われ、止まることのない旱魃に人々は強い不安を抱いている。危機感を抱いたアフガン政府は、「国民の半数がまともな食糧を得ることができない」と訴えて「貯水池」を奨励する布告を出したが、外国諸団体は殆どが首都カーブルに集中、農村の砂漠化は大きな国際問題としては取り上げられなかった。2006年は史上最悪の旱魃になる可能性がある。

 かくて、追い詰められた人々の心情が自然と暴力的な反抗に傾いてゆくことは、想像に難くない。タリバーン勢力の活発化は、このような民心を背景にしている。

 この情勢の中で、我々の活動は、「まずパンと水」を求め、旱魃対策に全力が注がれた。マルワリード(真珠)と名づけられた用水路建設は、05年4月になって取水口から4.8キロメートルが完成、第一次灌水が始められた。06年4月には10.2キロメートルに達し、第二次灌水を実現、砂漠化して放置された計500町歩(約500ヘクタール)を回復、多くの難民たちが帰農した。わが用水路で直接灌漑に浴する面積は06年5月現在、550町歩、冬の渇水期に他の水路に余水を送り、加えて約一千町歩の小麦の枯死を防いだ。

 これによって、住民たちの信頼を獲得した我々は、戦火と反米感情の広がる中、絶対的な安全を手にしたと言える。実際、用水路工事現場付近で外国人誘拐と襲撃が頻発する中、何事もなかったかのように着々と仕事が進められている。

 井戸事業は、地下水の枯渇と同時に、内部の綱紀の弛みで伸び悩んでいたが、05年度に全井戸事業を一時撤収し、建て直しが図られた。ジャララバードの新事務局態勢で、将来に向けて確実な礎石が置かれた。家賃の高騰、水事業の大規模化、長期的取り組みを考慮し、新政府から一万平方メートルの土地を得て、基地オフィスを移転した。今後、公共性の高いところに集中し、着実な歩みが予想される。

 医療事業は、05年度に米軍の活動でクナール州奥地の2診療所(ダラエ・ピーチ、ヌーリスタン・ワマ)を現地行政に移譲したが、悪条件の中、ダラエ・ヌール診療所(ニングラハル州)、ラシュト診療所(パキスタン北部国境)を維持している。


05年度事業報告及び06年度の計画

1. 医療事業
 2005年度は92、301名が診療を受けた。ペシャワール基地病院、各診療所の主要実績は別表2の通り。用水路工事の進展に伴って医療以外の仕事が増え、かつ医療職の人材流出が続く悪条件の中を、持ちこたえている。しかし、重機などの機材、修理を始め、かなりの資材をパキスタン側に依存する状態で、PMS(ペシャワール会医療サービス)基地病院の存在は不可欠である。04年度にアフガニスタン・クナール州の二つの診療所を移譲したものの、ハンセン病を中心とする診療は継続されている。

■2005年度(05年4月から06年3月)の詳しい診療数は別表5のとおり。総診療数92、301名(うち外来86、005名、のべ外傷治療5、178名、入院治療1、118名)である。

■ハンセン病および類似障害の診療……ハンセン病の外来受診者78名、入院治療受けた者141名。

■基地病院における検査件数は21、004件で、内訳は別表3の通り。


2. 飲料水源確保事業
 2000年7月、旱魃被害の著しかったダラエ・ヌール診療所付近に端を発した本事業は、03年6月には井戸一千本を超え、06年5月現在、1400本を超えた。この中には灌漑用井戸11、カレーズ38本が含まれる。ダラエ・ヌール下流域は、見違えるほど緑がよみがえっている。

 だが、ニングラハル州全体で見ると、地下水位は下がり続けており、再掘削したものが大半である。全域で1400本の維持補修に当たるのは不可能となった。これは住民の自立を損なうだけでなく、予算上でも泥沼状態に陥った。このため、アチン郡で採用した「即時譲渡、住民自主管理」を進めてきたが、職員が利害関係に巻き込まれ、動きがつかなくなっていた。そこで、新方針を採り、「全水源を住民に譲渡、いったん井戸掘り事業を解散。その後に再開して公共性の高い場所に集中すること」が断行された。

 05年度は、ジャララバード事務所の新態勢を整えつつ、ほぼ全ての譲渡を完了、全井戸事業を停止した。職員も数名を残して次の段階に備えた。少なからぬ職員たちが過去の業績とPMSの名声の上にあぐらをかき、これに個人的な利害が絡んできたので、弊風を一新して出直す必要もあった。懸案は、やっと実行に移され、06年度に「再出発」となる。05年度の業績は別表4の通り。作業地が増えていないのは、以上の事情による。

3.灌漑事業
 これまで会報で再三述べてきたので、詳細は過去の報告を参照されたい

 2005年4月、岩盤周りの難所(4・5キロメートル地点)を越え、念願の第一次灌水が始められた。03年3月着工から2年である。年度末には10・2キロメートル地点まで完成、06年4月、第二次灌水でブディアライ村下流域を部分的に潤せた。これによって、過去の旱魃で無人の荒野となっていた田畑、約500ヘクタールを年度内に回復、緑野を取り戻した。06年5月現在、灌水の面積は正確には以下の通り。

(1)過去の旱魃で砂漠化していた耕地…約480ヘクタール

(2)元来の沙漠が耕地となった地域…約50ヘクタール

(3)冬の取水が困難となった他の用水路への供給…推定約1,000㌶以上


 (1)と(2)は、何れもニングラハル州シェイワ郡クズ・クナール地方。(3)は既存の地域最大の2000ヘクタール以上を潤す「シェイワ用水路」への給水。大洪水で取水口が埋まり、浚渫困難で冬の取水量が半分以上低下していた。PMSも努力したが完全復旧が不可能と判断、我々のマルワリード用水路から余水を送って回復したものである。

 なお、過去の会報で述べてきた「第一期工事・全長14キロメートル」を「全長13キロメートル」に訂正する。これは主に、ルートの短縮と測量誤差による。

 05年度は、以上の主水路の延長と共に、分水路の整備、大洪水・集中豪雨による決壊部の復旧工事、取水口の改修が重なり、大きな努力が払われた。

 マルワリード用水路は、06年度中に残るブディアライ村2・7キロメートルを完成し、07年度から始まる第二期工事七キロメートルを以って完了する予定である。これによって、ニングラハル州北部の穀倉地帯は往時の農業生産を完全に回復した上、新たな耕作地を加えることになる。

 また06年度は、ブディアライ村上流(ダラエ・ヌール渓谷)に貯水池を多数設ける予定。アフガニスタン全土で最も犠牲になっているのは比較的低い(4000メートル以下)山の雪に依存してきた所(中小河川流域)である。大河川からの取水はむしろ例外的で、こちらの方が広域にわたる旱魃対策のモデルとなると信ぜられる。  付け加えると、初めから無人地帯であったと思えた荒野も、帰農した住民の話から、10年、20年、30年前からと、次第に増加していたことが分かった。中小河川の水量減少と農地の砂漠化が、相当前から徐々に進行していたことが分かる。場所によっては、ダウード政権時代(1974~1978)以前からのものもあり、少なくともアフガン東部農村では、旱魃が難民化の主因であったと推測される。

4.農業計画(農業チームによる詳細な報告あり)
 ダラエ・ヌール試験農場では、05年度の成果は以下のとおり。

(1)アルファルファは、現地の原種(シャフタル)より優れていることが認められ、広がる勢いを見せている。

(2)日本米:元来日本人ワーカー用に作ったところ、単位収穫量が優れ、周辺農家が興味を示している。インディカ種(長粒米)からジャポニカ種(短粒米)に一変したスワト(パキスタン)の例もあるので、拡がる可能性は否定できない。

(3)サツマイモ:昨年に続き、普及の勢いを見せている。

(4)茶の栽培:上流のウェーガル村に移してから、周辺農家に配った苗が大きくなり、希望が持てるようになった。

 その他、ソバなども試みられたが、現地の人々の好みや食文化の問題もあり、なお手探りだと言える。06年度は新たな試みはない。これまでの継続で、地道な研究が続けられる。


5.ワーカー派遣事業
 用水路工事が拡大して、更に働く人材が求められる。任務期間を最低2年としてから、やや安定してきたが、増員と共に長期滞在者が必要なことが痛感されている。また、絶対的な医師不足は続いており、これも日本人医師を希望している。

 2005年度被派遣者は別表6の通り。

6.その他
 ジャララバード水対策事務所は、長期態勢を築くべく、06年3月、借家から政府公用地へ移転した。設計・施工は全て自前で行い、一万平米の敷地に、これまでバラバラになっていた資機材置き場も集め、管理が容易となった。

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