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4年越しの悲願、用水路第一期13㌔遂に完成
3月15日、通水の祝典を挙行

PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長
中村哲
ペシャワール会報91号より
(2007年04月01日)
最難関のブディアライ村を攻略


水路完成の祝典に集まった人たち
2007年3月15日、わずか25メートルの水路区間に60名の作業員が殺到した。 ブディアライ村を通過し、4年の歳月をかけ、第一期13キロメートルの水路が開通するのである。
現場は興奮と活気にあふれていた。 ブディアライ村は第一期工事の最難関と目されていた。
2.5キロメートルは、これまでの工事からすれば決して長い距離ではない。
しかし、長大なダラエ・ヌール渓谷を下る土石流は想像を超えるものがあり、皆半信半疑だったのである。

約50キロメートル以上の渓谷は、標高差が3000メートル以上、一雨降れば、タタミの大きさの巨石さえ簡単に転がしてしまう。
そこで私たちは、激流の通過する主な河道4ヶ所(計300メートル)にサイフォンを設置、2.2キロメートルの開水路の両岸は全て二段の蛇籠工を施し、堅牢な構造をめざした。 谷を横断するから、もちろん橋梁や小さな水道橋が多数必要となり、水路工事始まって以来の支出と努力を覚悟していた。

集中豪雨は、春分の日を境として頻発するようになる。
そこで、「3月20日までに全ての主要工事を完了」と檄を飛ばし、薄氷を踏む思いでこの数ヶ月間を過ごしてきた。 サイフォンで長いものは120メートル、せっかく出来かけても、一発の豪雨で崩れ去るのは昨夏に体験ずみである。 昨年10月以来、「春分の日まで」を合言葉に、皆必死になって働いた。その結末を今目前にしようとしていたのである。


石流対策に蛇籠1,600㌧

この1年の困難はこれだけではなかった。 昨年7月に取水口を土石流が襲い、大規模な浚渫・改修工事を迫られた。 ブディアライ村通過を遅らせてはならないので、私が単独で任に当たり、クナール河の水位が下がる10月以来、4ヶ月をかけて決行、正月にはブディアライ村で指揮を執る予定であった。

取水堰の工事そのものは、度重なる改修を避けるため、長さ220メートル、幅50メートルにわたって巨石を並べ、主要河道の全面的な堰上げに成功、洪水に十分耐えるものとなった。 と述べるのは簡単だか、案外工夫が要った。片側から斜めに突き出す堰は、水制と同様、先端に深掘れを生じる。 すると堰上げの水位が下がって低水位の冬の取水が足りなくなって、毎年改修を求められる。この状態では、第一期工事は画竜点睛を欠く。

対岸は余りに遠いし、対岸の護岸は巨石運搬を大量に必要とする。クレーン車など夢のような話である。そこで計画したのは、「移動島方式」という奇想天外な方法であった 堰の先端に貯石場を設け、ダンプカーにして800台分を集めて広場を作った。そこに掘削機、ローダー、ダンプカー各1台が動けるスペースを確保、次いで先端を堰から切り離して島にする。

取り残された重機が、取水口側の島のふちを削っては対岸側を広げる。そうして、水底に巨石を敷き詰めながら対岸へ到着するのである。 数10メートルを渡るのは容易でないから、1日の作業が終わると筏で行き来した。対岸へ到着したのは3週目のことであった。

1600トンの蛇籠を擁して完成した強固な取水口付近
 着いたのは良かったが、今度は石材が不足して護岸工事ができない。 更に次の策は蛇籠の応用である。籠と作業員を筏で運ばせ、川原の玉石をローダーとダンプが集積、一列に並べられた蛇籠の天井部だけを開けておき、掘削機が玉石をすくって入れる。

いっぱいになると、作業員が待ち構えて天井を閉める。こうして、堰対岸の洗掘が予想される箇所一面に蛇籠を絨毯のように敷き詰め、各蛇籠を連結すると、全体が岩盤のよう になってびくともしない。水から遠い部分にはコンクリートを流し込む。更に川砂利を覆って仕上げとした。 ひと夏過ぎれば、何でもない玉砂利の川岸に見えるはずである。しかし、中身は800個の蛇籠(約1600トン)が一塊になった不動の板である。 野暮ったい方法なので、専門家が見れば大笑いするだろうが、他に名案がなかった。だが、丸い巨石を敷き詰める捨石工、玉石を詰めた蛇籠工、 これらの激流に対する強靭さは実証済みで、これで堰の致命的な欠陥が克服できたと確信している。これは、4年越しの悲願だった。

真冬の川べりは凍りつくような寒風にさらされる。私には「年寄りの冷や水」そのもので、その後ひどい風邪にかかったが、作業員たちは一言も不平を漏らさず、黙々と働いた。


外国NGOの堰造成で洗掘

だが次に待っていたのは、4.8キロ地点で起きた水路決壊の危機である。取水口の「大工事」が一段落しようとしていた矢先の12月25日、同地点で約15メートルが崩落した。 この程度の決壊には誰も驚かなくなっていて、対処方法をたちまち会得、年を追って水路は安定しつつあった。不審に思ったのは、最も川の水位が下がる時期のできごとだったからである。

修復工事を見回りに出かけて慄然とした。真夏の洪水ならともかく、真冬の乾期にクナール河の分流が決壊した水路の足元を洗っている。 同地点は2005年3月に開通した難所で、垂直にそそり立つ岩盤ぞいに長さ約1200メートル、高さ12~17メートル、幅50メートルを盛り土して作られたものである。 地盤が軟らかいため、1年半をかけて徐々に荷重を増し、ほぼ安定したと信じていた。何と、その盛り土の直下を急流が洗い崩している。

原因は人為的なもので、取水口から約1000メートル下流の対岸に設けられた堰のためであった。4年前の夏、某外国NGOが、左岸側の主流を堰き止めて、右岸側の分流に流す工事をした。 目的はよく分からない。その後、私たちの水路が走る右岸側が年々洗掘され、国道や耕作地が次々と濁流に消えていった。 私たちのマルワリード用水路は、取水口から4.8キロ地点までを道路と共にクナール河ぞいを流れる。このため、着工から現在まで、護岸工事の連続であった。 実際、総工費の半分以上が「水路保護」に使用されたと言っても、決して誇張ではない。

しかし、恨みがましいことを述べても水は流れない。正月明け早々から、再び水との格闘が始まった。 同3.6~4.8キロ地点は、造成された盛土上の水路で、全体が湿地帯の上にある。4年前着工したときは、クナール河の河岸が水路から約500メートル離れていた。 それが、年毎に近づき、眼下に見る急流が20メートルの至近距離に迫っていて、増水期の4月に大規模な決壊が起きるのは、火を見るよりも明らかだった。

方針は二つ、1:先ず近づいてくる河道を元の位置に押し返すこと、2:盛り土直下の浸透水を処理し、地盤の軟化=地滑りの危険を極小に抑えることである。 それも2ヶ月以内の期限つきである。第一期工事完成を直前に、さすがに肝が冷えた。過去、怖い目には何度も出会った。しかし、これほどの事はなかった。

護岸工事と土石流対策はこれまで手がけてきたが、1.2キロに及ぶ湿地帯の対処は初めてである。 いくら多忙だったとはいえ、この事態を予測しなかった粗雑な計画に思いを馳せ、目の前が真っ暗になった。所詮、素人だったのだ。 工事完遂を夢見て連日突貫工事に忙しい職員たちを見ると、言葉に出す勇気が湧かず、まる一日呆然としていた。また、話したとて、いたずらに不安をかき立て、小田原評定を招くばかりだ。

だが座して待つなら、確実に第一期工事は失敗する。総工費10億円は夢と潰え、数千町歩の田畑は再び砂漠化し、ペシャワール会も解散に追い込まれるだろう。 一か八かでも、ここは積極的な手を打つべきだ。己の無知と非力さ加減はよく分かった。しかし、相手のことはよく調べていない。先ずは調査である。

「これならいける」

そこで行なったのは、これまでの護岸工事のときと同様、付近の小高い丘に登って地図を作成することであった。 川幅1キロのクナール河はあまりに大きく、河岸で眺めていても全貌がつかめない。また、アフガニスタンの詳細な地図は入手困難である上、河川敷の河道は常に変動する。 高いところから見ると渇水期の河道と砂州を一望できる。同時に、記録に収めてきた2万枚の現場写真と同地域の状態を照合、過去の河道の変遷を確認するのである。

すると、河道が近づけば近づくほど、盛土の部分決壊と干割れの頻度が増えている。 地盤軟化を促す浸透水の多くは、直接、最寄りの川の砂礫層をくぐってくることが分かった。これならいける。 河道を遠ざけるだけで十分の効果があると読めた。少なくとも石出し水制による護岸と河道変更は成功してきた。 長さ130メートルの水制3基が300メートルごとに置かれ、迫り来る分流を遠ざける工事が始まった。

湿地帯処理については、日本で土木関係者にも相談、目の粗い砂で透水層を敷き(サンドマット工法)、 さらに砂利を厚めに置いて重機やダンプカーの交通路を確保、その上で排水路を掘削した。更に軟化した盛土の下段に腹付けして、新たな盛土を厚く加えた。 日本側の事務局には「緊急予算」を頼み込み、一時はダンプカー45台、ローダー7台、掘削機10台が稼動していた。 河道の変化による対岸への被害を避けるために、湾曲して襲ってくる主流を分割して処理した。一日一日が綱渡りのようで生きた心地がしなかったが、詳細は割愛する。

1月12日に工事が始まって40日目、クナール河が増水を始める頃、逆に湿地帯の水が引き始め、河道は3年前の位置に戻った。 全作業日数48日、取水口改修から5ヶ月間を経過していた。やっとブディアライ村の作業現場で指揮を執れるようになった3月初め、 アフガン人や日本人職員の必死の努力で、計300メートルの長大なサイフォンが既に完成しており、先は見えていた。第一期工事完成は確実と判断、 3月15日に水を流して確認、職員の間だけでささやかな内祝いを行った。当日働いた作業員400名も集まり、喜びを分かち合った。工事を始めてまる4年である。 特に、この半年が10年を経たように思われた。私の喜びがひとしおであった事は、言うまでもない。



荒れ地に緑がよみがえる奇跡


総延長13キロメートルに及ぶ用水路の最終地点
この4年間で、工事に従事していた技師や現場監督は三分の一に減り、労苦を共にしてきたのは、主に周辺農民たちであった。 彼ら自身が有能な石工であり、蛇籠工であり、優れた水の観察者だったことは知られて良い。この工事で事故による重傷4名(頭蓋骨骨折1、手足の骨折3)、 死者は作業中の心筋梗塞1名、事故死は1人も出さなかった。

今や吾が「マルワリード用水路」は総延長13キロ、1日最大送水量50万トン、既に砂漠化から回復して耕作できるようになった田畑が1500町歩、 渇水時に送水できる耕地は約6千町歩、第二期工事によって潤し得る灌漑面積が推定5千町歩以上、ニングラハル州北部の農民たちの守護神となった。 一木一草もなかった荒地に緑がよみがえる奇跡を見た者は、ひとしおの感慨を以って、生きる恵みに感謝するだろう。

折からトルハム国境では、自爆攻撃で錯乱した米兵が群集に乱射、18名の市民が死亡したとの報が伝えられていた。 四方八方が敵に見えたらしい。人々の方でも怒りが爆発、直ちに1千名の反米デモが荒れた。雪解けと共に活発化する武装勢力に備え、 欧米軍は4万数千名の兵力に膨れ上がっており、アフガニスタンの農村部が「危険地帯」なのだと言う。確かに、外国兵が居るところは危険だ。 最近、彼らの横暴さが目に余るようになっている。先日、米軍の装甲車の車列からいきなりワインのビンが投げつけられ、フロントガラスが大破、 私の運転手は頭部に重傷をおって死ぬところだった。最近、主婦がジャララバード近郊で、やはり酒ビンを投げつけられて死亡している。 戦争は狂気を呼び、狂気が戦争を拡大する。それだけではない。今年は降雨がやや多かったとはいえ、年毎に進行する乾燥化は収まりそうにない。 人々の窮迫感は日毎に高まっている。

このような中であればこそ、完成した「マルワリード用水路」は、逃げ場を失った多くの人々に希望を与え続けるだろう。 「アフガニスタン」は日本で忘れ去られたが、私たちの共有した労苦と喜びの結晶は、人々の命の営みが続く限り記憶されるだろう。

3月15日、水路沿いの無数のヤナギがいっせいに芽吹き始め、水路完成を祝福した。


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