ここにこそ動かぬ平和がある
−用水路は現地活動25年の記念碑

PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長
中村哲
灌漑用水路完成間近 特別号より
(2009年05月27日)

難航を極めた岩盤周りの工事
5月、ガンベリ沙漠に酷暑の夏が到来した。めまいを起こすような強烈な陽射しにあぶられ、目つぶしの砂嵐に吹かれながらも、黙々と作業する一団がある。作業員660名、職員60名、ダンプカー25台、掘削機8台、ローダー6台、トラクター20台が広大な沙漠の中でうごめく。その様は、さながら巣作りに励むアリの群である。

 ガンベリ沙漠はアフガニスタン東部のジャララバードから15キロメートル北にあり、その幅4キロメートル、長さ20キロメートル、ニングラハルとラグマンとの州境に当たる。
厳しい自然条件のために交通路としては不向きで、古来多くの旅人たちを葬ってきた。この沙漠が、六年前着工したPMS(ペシャワール会医療サービス)のマルワリード用水路の終点である。現地のことわざに、「ガンベリのように喉が渇く」と云われるほど、乾燥した荒地として有名だ。
初めの頃、ここが緑の楽園になるとは誰も信じなかった。だが、この6年間、用水路は、難工事を重ねながら全長20キロメートルまでを完成、2500ヘクタール以上が潤されて緑を回復した。残る4キロメートルが、このガンベリ沙漠沿いの岩盤地帯と沙漠横断路である。この完成が目前に迫っている。

 工事は昨年11月から続けられていたが、予想以上の難所となった。沙漠の熱風はアフガン人にとっても尋常ではない。「夏前までに完成」が合言葉だったのに、これまでの工事の後始末、マドラサ建設、他の取水口の建設、湿地帯処理、地方政府や米軍・軍閥との折衝、例年にない雨天続きなどで、大幅に遅れていた。「夏は働けない」と皆思ったが、この機を逃しては仕上がらない。気力と希望にすがりながらの挑戦となった。


建設のいきさつ


用水路最大のQ2貯水池、左手はガンべり砂漠
 PMSの「マルワリード用水路」が実行に移されたのは、2003年3月19日、米軍のイラク侵攻の前日であった。
当時、ジャララバード周辺は空前の規模で農村の沙漠化が進行していた。かつてこの一帯はアフガン東部で豊かな穀倉地帯として聞こえていたが、1999年から旱魃が次第にひどくなり、廃村が広がっていった。農民たちは続々と村を離れ、多くはパキスタン北西辺境州へ難民として流れていった。折悪しく前後して、旧タリバン政権と英米との衝突が起きた。

クナール河の取水口と斜め堰
1998年、ジャララバードは米国の巡航ミサイルの攻撃にさらされ、2001年に「ニューヨーク・同時多発テロ」が起きると直ちに激しい空爆にさらされた。その後の政治的混乱は激しくなるばかりで出口が見えないが、世界の耳目はいたずらに政情に集中し、人々の本当の困窮は伝わることがなかった。
 アフガン人の大半が自給自足の農民である。米軍の進駐に続いて「アフガン復興」が話題となったが、農村地帯が恩恵に浴することは少なかった。PMSは既に2000年から医療だけでなく、飲料水源(井戸・カレーズ)の確保にのりだしていたが、飢餓と難民化が後を絶たぬ状態で、より抜本的な「農村復興事業」へと傾斜していった。用水路計画が始まったのは自然な成り行きであったのかもしれない。当時、誰も手をつけなかったからである。


適正技術の習得 ―人と自然との間


参考とした筑後川の山田堰(福岡)
 初め、手さぐりの時期が続いた。一介の医師にとって、農業土木の分野は余りに縁遠いものであった。また、仮に現代日本の技術を駆使できても、現在の用水路ができたかどうか疑問である。単純な手作業を多くもりこみ、現地で維持補修が可能なものでなければならない。

このヒントを与えてくれたのは、現地と日本の古い水利施設であった。両者の類似点は、当然のことながら機械を使わず、人力に頼る方法である。

取水口水門。洪水に幾度も耐えた
 特に、直に自然と向き合う河川からの取水技術、自然の猛威から身を守る術である。このため、河床の堰上げ、護岸、土石流・鉄砲水対策、防風対策など、自然との格闘に明け暮れる中、基本的考えは昔のものを踏襲することになった。意図的に真似たのではなく、限られた技術力と物量の中で、どうあがいても、それ以外の方法をとれなかったのである。

取水堰は福岡県の筑後川沿いにある山田堰がモデルとなり、改良を年々加えてPMS独自の方法が確立された。護岸法では蛇籠工法や石出し水制を駆使して洪水・決壊被害を乗り切った。貯水池も自宅近辺の堤を模倣したものである。もちろん、石や土の性状、地形を考慮し、かなり計算されたものであるが、結論は吾々の知恵は古人に及ばないということであった。完成しつつある吾がマルワリード用水路は、日本人の御先祖さまに負うところが大きい、と告白せねばならない。

蛇籠で護岸した用水路。17万本以上の柳を植樹

 6年をふりかえると、自然は決して過剰な要求をしない。「過酷な自然」とは、人間側が欲望の分だけ言うのであって、自然を意のままに操作しようとする昨今の風潮は思いあがりである。インダス河の支流、クナール河は簡単に制御できるものではない。

殊に取水口の建設は、人為と自然の危うい接点であり、「少しばかりお恵み下さい」という姿勢がなければとても成功するものではなかった。

柳や桑、ユーカリの木に囲まれたD沈砂池と、左手クナール川に造成した石出し水制
「遊水池」や護岸法の着想もそうで、古人は自然を制御するのではなく、同居する知恵を生かしたのである。

難工事のG岩盤は階段状の盛土をして水路を通した。地盤の軟化を柳が防ぐ
人里を守る

 24キロメートルの水路は、単に水を送って3000町歩の農地を確保しているだけではない。水路自身が山麓地帯の人里の守り役になっている。水路は、ヒンズークッシュ山脈の支脈・ケシュマンド山系の南麓を岩盤沿いに走る。当然多数の谷を横切り、崖地沿いに建設される。それは、とりもなおさず、24キロメートル全域にわたって上流の降雨を引き受けねばならぬということである。

通水前のK貯水池(2007年3月)
アフガニスタンの茶褐色の山肌は、殆んど植生がなく、保水性に乏しい。乾燥地といえども、きまぐれな集中豪雨の規模は甚だ大きいもので、ごく短時間に襲う鉄砲水にしばしば泣かされた。

 しかし、吾々が泣く分だけ、人里は安泰になる。かつては脅威であった鉄砲水や洪水が、ことごとく水路内に流れ込むからだ。そこで途中から着想を変え、岩盤沿いや小さな谷程度の雨水は積極的に水路内にとりこむ設計となった。

K貯水池と復活した田畑(2009年3月)
もちろんダラエヌールなど超弩級の谷はサイフォンでくぐらせるが、大抵はとりこむ。貯水池がやたらに多く、全体にゆとりのある幅をとっているのは、このためである。
また土石流の谷では植林に努め、猛烈な勢いで下る流水の速度を落とそうとした。ガンベリ沙漠では日本の海岸と同じように、5キロメートルにわたる防風・防砂林を造成した。
 水路が守るのは洪水ばかりでなく、里の人間関係がある。例えば、水争いで殺傷沙汰が絶えなかった村同士の歴史的な和解も、マルワリード用水路によってもたらされた。「衣食足って礼節を知る」というのは本当である。

砂漠化から回復したダラエヌール山麓
の村。K貯水池からの灌漑。
遠方にマドラサが見える。

また、作業員は全て近隣農民であったから、彼らに落ちる日当もバカにはならない。この6年間で延べ55万人が作業に従事した。シェイワ郡では作業に携わらなかった壮青年を捜す方が難しいと言われる。
不幸にして水路の恩恵に浴さなかった村では、賃金収入で生活が保障されてきた例もある。

こういった村では、作業員が半ば熟練工となっていて、蛇籠の制作、鉄筋の裁断、水路やマドラサ建設に欠かせぬ人員を補給し続けてきた。その経験を生かして他地域に出稼ぎに行ける者もいる。「用水路事業がないととっくの昔に難民化していた」と口をそろえる。



ガンベリ砂漠に植えられた砂防林
百姓が作った水路

 取り込まれた水は、用水路を通して人里を潤す。この用水路の大半が蛇籠工と柳枝工で成り立っており、土、石、木が主な要素である。伝統技術に負うところが大きいと先に述べたが、当然、作業員であるアフガン農民が日常から身につけている技術が活躍した。掘削機などの機械力は入っているが、最終仕上げは必ず手作業に拠った。特に石垣や蛇籠組みなど、石を扱う仕事はそうである。

彼らは有能な石工でもあるのだ。また、水は農民にとって生命線でもあるから、その観察力は侮れない。理屈を言っても彼らは信用せず、ただ「本当に水が来た」という事実だけが説得力を持つ。灌漑事業とは、農耕と同じく、徹底した経験実学である。

 初めの頃居た「技術者」と自称するものは全て去り、残るは近隣農民、教師、ムッラー、医療関係などの職員であった。彼らが現場監督として年ごとに経験を重ね、「自覚しない技術者」として、指示された工程を一枚の「絵図面」で理解し、忠実に施工できるようになった。「エンジニアなしに、百姓である自分たちが造った」というのが作業員や職員たちの誇りになっている。PMSが自信を持って「将来の水路保全」を述べるとき、彼らがいつでも速やかに動けるという経験、人々の水路への愛着が背後にあるからだ。

マドラサと自立定着村の建設


建設中のマドラサ。
左がモスク、右が教室
 マルワリード用水路建設事業は、全長24キロメートルの完成を以って、一つの区切りとなる。しかし、これは吾々の事業の終わりではない。「出産が終わる」と述べるのが正確である。現在、この用水路によって生活を立てる者は15万人を下らない。更に増え続けるだろう。

 PMSが着手したマドラサ建設と、自立定着村そのものが、私たちの願いを象徴している。マドラサはアフガン人の生きる土俵を提供する伝統や文化の要である。地域の人々が生きる精神的なよりどころなしに、単に「生存する」ということは絵空事に近い。

600人以上が学べるマドラサ。
手前はK池からの分水路

どんな人間でも、自分が育った宇宙がある。それは、善悪や美醜のものさしを提供するだけではない。同時に、人知が超えてはならぬ神聖な普遍性を戴いている。「どんな悪人でも許され、どんな善人でも裁かれる」という逆説的な自然の事実が隠されている。それ故にこそ、人はその前で謙虚になり、自由を感じ、人間らしい感性を保つことができる。

用水路はまさに、地域はもちろん、これを支える日本側の人々の謙虚な祈りにも支えられて、実現したのである


2009年5月11日
マドラサの体験入学式。子供たちに花束を贈られた中村医師
『中村医師のメール報告』で詳しく読む!>>>
 かつて日本でも、大きな水路事業が完成したとき、必ず祠を設け、天の恵みに感謝し、無事を祈願した。日本とアフガニスタン、自分はこの二つの異なる世界の間で、一つの輝きを垣間見た気がする。確かに血なまぐさい出来事や、利害の絡むどろどろした争いも絶えなかったが、それは決してこの輝きを損なうものではない。

 自立定着村の方は、やがて潤されるガンベリ沙漠の開墾地(約200ヘクタール)に設けられる。用水路建設に携わった農民や職員を自活させ、かつ経験を生かして水路維持を子々孫々まで行われるようにするためだ。

自立定着村建設中

また、これまでの「ダラエヌール試験農場」を継ぐものでもあり、ここに医療から出発し農業生産活動に至った、私たちのひとつの帰結点がある。人は自然の一部であり、自然を離れては生きてゆけない。

 以上のように、「協力事業」といっても、吾々は他人さまを「助けてやる」ために水路事業を行ったのではない。
また、別に何かの思想や信念があったわけではない。そこで自分たちをも支える何かを見出したからである。その何かを語ることはやめよう。それは、言葉を刻みだした瞬間から人為の加工品であることを免れぬ何ものかだからである。

 ともあれ、マルワリード用水路は、現地活動25年の「記念碑」だと言える。そこに込められた様々な思いと出来事をつづるのは自分の能力を超える。ただ、この命の流れが、絶えることなく続き、建設にかかわった全ての人々に心和むものを与えることを祈る。
変転する殺伐な世界にあって、ここにこそ動かぬ平和がある。

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