パキスタン地震について
現地プロジェクトは通常通り

現地ワーカー 村井光義(福岡市出身24歳)


 2005年10月8日午前9:25(日本時間午後0:55)に発生したパキスタン北東部地震について、同日ペシャワールのPMS病院に問い合わせたところ、現地スタッフ、並びに日本人ワーカの無事が確認されました。

 アフガニスタン東部の事業についても問題はなく、 ジャララバードではペシャワールと同程度の震度3〜4の揺れがあった模様です。
 
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10月12日 車3台で支援に出発

 ペシャワール会現地病院(PMS)より看護師2名、事務要員4名がテント・毛布・医薬品を持って車3台で医療支援活動のためにイスラマバードの支援センターに向かいました。ペシャワールの病院ではイスラマバードで収容しきれない患者の一部受け入れも考えております。
2005年10月12日現地時間:午前8時

救援物資輸送(10月12〜14日)の報告


出発前
 10月8日午前9時前(パキスタン時間)に起こった大地震の4日後、12日午前9時に救援物資を届けるため、イクラムラ事務長以下スタッフ9名と事務長のご子息、総勢10名、車3台でマンセーラ(Mansehra)へ出発しました。

 この計画はイクラムラ事務長、ジア先生及び多くのスタッフの地震被災者に対して何かしたいという強い希望によって持ち上がりました。お金を救助機関に振込む方法もありますが、どこも信用できないと判断し物資輸送の方法を選びました。


救援品の一部
11日、事務長と数名のスタッフがテント・寝具・寝袋の買出しに行きました。店主の中には足もとをみて高い値段を提示した人もいたそうです。夕方からは藤田さんの指示のもと医薬品の荷作りを始めました。 輸送初日、幾つかの足らない物資を道中で買い込みながら目的地に向かいました。アボタバード(Abbotabad)で建物が数件崩壊しているのが目にはいってきたと同時に、道の両端に救援物資を求めた人が立ち始めました。

 そこから30km先のマンセーラの被害がひどいということでしたが主要道路沿いの建物に被害は見当たりませんでした。被災者に物資を直接届けるという目的にしたがい車を進めることにしました。

 次の大きな町バグラム(Batgram)を通り過ぎるときには20時半を回り、道路沿いの建物しか見ることが出来ませんでしたが、3割ほどが崩れていました。
車を先に走らせ続けたところ民家が段々と減り、夜も深くなるのでバグラムに戻ることにしました。暗くて町の状況をきちんと把握できませんでした。事務長が土地の有力者と話をし、物資を確実に被災者に使用、譲渡する事を繰り返し言い、約束をし、物資を置いてきました。その日はアボタバードまで戻り宿をとりました。

袋詰め作業

2日目は残っているお金を利用し必要と思われる食料、医薬品を購入、連日テレビで放映されているバラコート(Balakot)に向かう準備を始めました。どれも値段は通常通りでしたが、包帯が見つかりませんでした。購入は昼過ぎまでかかり、それから出発すると目的地に着くのは状況把握の難しい夜になります。
前日と同じ事を繰り返さないために出発を翌朝にし、一人一人に渡しやすいように食料の袋詰めを100袋作りました。

3日目は2ヶ所に物資を持っていきました。最初にマンセーラのボリッチ(Borich)に行きました。そこはメインバザールから一山越えた30kmほど離れたところにある村です。前日に会ったアボタバードの警察官の故郷で、村一帯が崩落していると聞いたからです。

村に着くと車の周りにたくさんの人が集まり、それぞれが被害の状況を説明しはじめました。実際に歩いてみると言っているほどの被害はなく、沢を上りながら1時間ほど歩いて1件の家屋崩落を確認しました。村は広く、全てを見て回る時間もないため、何人被災者がいるのかをリストにあげてもらうことにしました。リストの名前は20名ほどでしたが、約200名の村人の前で人数分だけをおいて行くことはできず、45袋を渡しました。水は近くにあるので除きました。(被災地ボリッチ)

次にバラコートに向かいました。町に近づくにつれ多数の車と土砂崩れによる道路封鎖によって渋滞しました。被害状況は悲惨で、町の建物の9割は崩壊していました。
 特にメインバザール近くの丘の家は全て潰れていました。瓦礫の下から人が出されるのを見る事はありませんでした。

地震から一週間経って少し落ち着いたのか、それとも一週間ずっと救出作業がされてないのかは分かりません。町は人で溢れていました。特に、パキスタン国内から救援物資を持ってきている人が多かったです。予想以上に国際機関やNGOの人は少なく感じました。

町には絶え間なく車が到着して、寄与者がトラックの上から物資を投げ、それを奪い合うのは被災者だけではない様子でした。道路に残されている衣類も大変目につきました。

 バラコートには地域の救援本部が政府・軍によって設置され、ヘリコプターは次々に発着し、ミューを使って山岳地帯に物資を運んでいます。私達はそこに預けることにしました。

被災地バラコート

緊急救援物資輸送は「何が必要か、誰に必要か」と言う点で非常に難しかったです。
原因は主に三つあると思います。

一つ目は情報過剰と情報不足です。テレビで放映されているところは注目度が高く物資が集まりますが、正確な要求品目が伝えられていません。必要とされているテントが少なく、あまり必要とされていない衣類は捨てられています。

また、水が必要な所、食料が必要な所、テントが必要な所、薬が必要な所、衣服が必要な所など場所によって要求する物が違います。
運よく被害が知られている場所はまだ良いですが、日本と違って全国各地と連絡を取ることが難しく、山の多いパキスタンではまだ被害が誰にも知られてない場所で助けを求めている人がきっといるはずです。
二つ目は貧困です。

 被災地付近の道路にはたくさんの人がいました。特に、町から離れたところに住む人は裕福ではないので、無料で物資が手に入るとなれば一日中立っています。

 この二点を考えると、もし地震被害者だけに物資を届けるのが目的ならば、情報収集時独自のグループが要ります。輸送も一緒におこなうと、住民が多くの支援を受けるために被害を誇張して伝えたり、脅かしたりして必要以上に物資を求めるからです。

三つ目は救助活動に統制が取れていない事です。

 物資が集まるがそれを必要とする人に届けることができず、情報も少ないので状況を把握できていません。また、瓦礫を取り除くための充分な重機が一週間経っても現場にありませんでした。

(写真:ボリッチの崩壊した家)

今回のPMSの物資輸送も上記の理由と経験不足で満足な活動はできませんでした。被災者に直接手渡すという思いで出発しましたが、情報を自力で集めたり、山岳部に運んだりするには時間的・機動力的にたらず第三者に頼ることになりました。

 これ以上のことをするためには、人・時間・機械を用いた活動になり、冬に備えた援助、町の復興に関する援助など、中・長期的な活動がこれから求められると思います。

現地ワーカー 村井光義/福岡市出身24歳

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支援活動関連写真


被災地パグラム

救援物資のテント

袋詰め作業


救援物資の一部

被災地パラコート

被災地パラコート


被災地パラコート

10月14日朝



ペシャワール会報86号(2005年12月07日発行)より

続けて86号の哲先生の記事も読む>>
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