古 屋 庄 衛 門

(西平尾)


村を豊かにするために一生をささげた名主



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 今からおよそ170年前、徳川12代、将軍家慶の文化文政のころ、東・西平尾地区は平尾村とよばれていました。
 当時のご領主様は、4000石(一石=約180g)の井上志摩守という武士でした。名主は古屋庄衛門という人で、村のほぼ中央付近にお屋敷がありました。このお屋敷の道ぞいに布令(命令)を知らせる公札場がありました。この場所は今80才くらいになるお年よりが子どものころには、社頭学校のあった所でよく集まったそうです。また、古谷側という地名もここからきているのでしょう。
 庄衛門は、榛原町勝間田の生まれと伝え聞いています。平尾村に領主様の命により、名主として住んでいました。この庄衛門は、人情厚く、とりわけ百姓をやさしく愛し、よく相談相手になっていました。いつも村を豊かにすることを考え、山や川を整備してよりよい生活ができるよう努力していました。
 あるとき、庄衛門は、ご領主様にため池用水の必要性を一生けん命話し、わかってもらいました。工事がゆるされました。庄衛門はやる気まんまんで、先頭に立ってため池の堤防を築く工事を行い、完成させました。
 西平尾には今も小さいため池がいくつかあり、米づくりに必要な水を与えてくれています。平尾村のため池は、井上様が造ってくれたといいますが、本当は庄衛門の熱意と努力のおかげです。村は豊かになり、ますます庄衛門はしたわれました。「井上に過ぎたるものが3つある。池に林に庄衛門。」という里うたが、だれともなく農民から農民へ歌われ、たたえられました。
 このように農民からしたわれた庄衛門は、文政11年(1828年)5月9日に、おしまれつつ永眠しました。「風流軒自由三昧居士」と刻まれたお墓がありましたが、墓地の移転でどこかにまぎれ込んでしまったようです。写真は、風流軒自由三昧居士のお位牌です。お位牌は横山嘉彦さん方で大切にされています。