火の玉の出た道  

(西平尾)


      熊谷三次の火の玉語り



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画 内堀卓哉

 稲荷部と西平尾の間に松山とよばれる所があります。明治のはじめの夏のことです。あちこち流れ歩いていた一人のばくち打ちが、信州(長野県)からやって来てこの松山にとどまりました。その名を熊谷三次とよんだそうです。その男は、賭場(ばくちを打つ場所)あらしのつわもので、一度さいころをふると、その場に出ていたお金をすべてとっていってしまい、一緒に勝負していた者はたいへんくやしがりました。
 夏のある夜、とうとうけんかになってしまいました。村のみんなは、何とか三次をどこかに追いやってしまうことはできないか、相談しました。三次もうすうす気がついていたようで、この話し合いをこっそりぬすみ聞きしていました。すると、村の一人がそれに気づき、にげる三次をみんなで追いかけ、お墓のあるあたりのどぶ田の中でつかまえ、鉄砲でうち殺してしまいました。死体は上山池の土手にうめたそうですが、あわててうめたので足は穴から出ていたといわれます。
 ひどい目にあった三次の死体は、その後、怨霊となり、夜な夜な火の玉となって現れました。梅雨のころから夏の終わりまで、毎夜午後9時ごろから午前0時ごろまで、田んぼの上1mぐらいの高さを、東に西に焼き場を通って文永寺前までを行ったり来たりしていました。色はだいだい色でちょうどちょうちんの火に似ていました。これをあまり長く見ていると、目の前に飛んでくると言われ、おそるおそる見たそうです。
 夜おそくこの道を通って家に帰る人が、火の玉を追っかけて走り、それに近づくと火の玉はまた前の方に飛んでいったそうです。人々はこの火の玉を「迷い火」とよびました。この火の玉も昭和16年(1941年)ごろからあまり出なくなって消え去りました。当時の夜の不思議な本当のお話です。