稲 荷 部 川

(稲荷部


10年1作の洪水地域が、宝の田に



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 稲荷部は名の通り稲を栽培してきた地区です。稲荷部川は、昔、「芳川」と呼ばれ、堤防のない水田の低いところをさがすようにして流れる小さな川でした。菊川と合流する所は、川の底が高く川幅もせまかったので、水の流れがよくありませんでした。そのため、少しの雨でも大水になり、何日も水がひかないままでした。それで、稲の穂がくさるなどして、10年1作(10年に1度お米がとれるだけ)というとても悪い田んぼで大きななやみでした。
 明治のはじめ、人々はお役所にお願いして、下流の土手をつくる工事を行ってもらいました。戦争のために米をたくさんとるというお役所の方針で、内田南部耕地整理組合がつくられ、昭和18年(1943年)から3年間で現在のような川の形になりました。この作業は、戦争で男の人がいなかったため、老人や女、子どもまで働いて行われました。シャベルで土をほりモッコでかついでの改修工事でした。稲荷部川という名前もこの時つけられました。その後、何回も改修を行い、昭和40年(1965年)には今のような広い川ができました。
 そのころに田んぼは、1アールとか3アールの変形した小さいものが多く、農作業がとても大変でした。2度の耕地整理を行い、昔の田んぼより広い30アールのものになり、毎年確実にお米がとれ、面積当たりの収穫量も昔より 1.5倍もとれるようになりました。
 稲荷部の人々は、こういう苦しい歴史の中で川を愛してきました。生きている川は油断できません。上流部の開発で洪水になる心配があります。だから春と夏には、全戸の人々が出て、ていねいな草刈りをしています。自然がすばらしいと言う人が多いのですが、放置した自然はすばらしい自然ではないのです。人が手をかけすぎた自然も自然ではないでしょう。
 自然を育てる稲荷部の人々の心が川を守り、川が稲荷部を守っているのです