窪 川 鶴 次 郎

(御門)


御門出身、文学を勉強して作家になった人

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 窪川鶴次郎は、明治36年(1903年)医師竹造の次男として、生まれました。 竹造は、明治37年に、御門で医院を始めて、内田小学校の校医もしていました。そのころの田舎ではめずらしく、お手伝いさんや人力車の車夫がいて、たいへん裕福な家庭でした。
 内田小学校へ通っていたころの鶴次郎は、とても元気な子どもで,いたずらも相当なものでした。しかし、勉強もよくし、成績もとてもよかったそうです。
 掛川中学校(現在の掛川西高等学校)を卒業し、医師をめざして金沢第四高等学校(現在の金沢大学)へ進学しました。しかし、お父さんが45才の若さで亡くなり、その3年後には、お母さんも亡くなってしまいました。そのため、大学に通うことができなくなりました。大学をやめて、文学の勉強をして、たくさんの本を書きました。友達で作家として活躍をしていた中野重治や堀辰雄といっしょに詩の雑誌「驢馬」を発行したり、「日本近代文芸思潮論」「短歌論」などを発行して有名になりました。また、大学の先生でもありました。昭和2年、作家の佐多稲子と結婚しましたが、昭和20年に離婚しました。その後も、たくさんの本を書きましたが、昭和49年6月15日に、心臓発作のため71才で亡くなりました。   みなさんも大きくなったら、窪川鶴次郎の本に出会うことがあるかもしれません。書いた本には、「文学の思考」「現代文学論」「新浅草物語」などがあります。