八 木 繁 樹

(稲荷部)


日本一早く、農協で有線放送を、農家に小型耕耘機を



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 八木繁樹さんは、稲荷部出身の傷痍軍人さんです。戦争で片足は義足となり、手の指も取られていました。日本が戦争に敗れて、つぶれそうな農協をみんなに頼まれて救った人です。
 八木さんは「つぶれそうだからこそもっと大きな夢を」と農家によびかけて、常に積極的にがんばりました。農協からの指導や連絡には、どうしても農家全戸に有線放送が必要だと提案しました。そのころ電話があったのは、お医者さんと、農協・役場・学校だけでした。だから百姓に電話なんか必要ないと反対した人もありました。
 昭和29年(1954年)、有線放送が村に一斉に開通しました。農家同士が電話で話ができ、自分の家から農協や役場とも連絡ができるようになりました。忙しい農家は、家にいたままで用事をすますことができ、たいへん喜ばれました。
 電話もべんりでしたが、村のお知らせや身近なニュースを、朝晩、放送したことも喜ばれました。家族でご飯を食べながら、学校のようすを放送で聞くことができます。我が家のいたずら坊主が、とても元気に本読みをしてびっくりしたお母さんの話も聞きました。
 昭和33年(1958年)12月3日突然「今、南中が火事です」という緊急放送に、内田の人々は何をどうすればよいかわからないまま、学校に走って消火の手伝いをしました。有線放送の威力を 100%発揮した大事件でした。病人が出た時などもすごい力を発揮しました。
 有線放送が農村ですばらしい力を発揮するということがわかりました。八木さんは、有線放送の機器や施設をつくる工場を農協内につくって、全国の農協をまわって教え、施設をつくってあげました。


 また、八木さんは、トラクターを日本で使うようにした最初の人でもあります。そのころは、かまとくわが農具でした。進んだ農業をする人だけが、牛を使って田畑を耕していました。農業高校の先生でさえ「日本は国土がせまいから機械化農業などできない」と言った時代です。
 その時代に、八木さんは、小さいトラクターに目をつけて探し、アメリカから輸入しました。日本の農業に合わず使い物にならなかったトラクターを、段平尾の農機具屋の長谷川春蔵さんと研究して、使えるように作りかえました。トラクターのエンジンを利用して農産物を運ぶことができる車にもしました。
 今は大型の乗用トラクターが普通ですが、日本のトラクターの芽生えは、我が内田でした。
 八木さんは、新しいことをする時「ダメだ」とか「それは無理だ」と決めず、ダメの壁を突き破り、夢を内田の中で開かせました。八木さんは、夜も昼も、そして日曜日もない毎日でした。手足が不自由な身体にむち打ってがんばりました。
 教育にも熱心で、農協事務所のカウンターの前を本棚にして、たくさんの本を並べ、読書を農家にすすめました。貧乏な時代、働くだけの農家の人に、これからは勉強しなければだめだと説いていました。青年団の集まりにも出かけて、経済のこと、文化のことなどもお話しました。晩年は、日本報徳社の副社長になりました。
 私たちは、そういう偉さより、若いころの八木さんが郷土のために夢をかかげてがんばり、みんなと一緒になってその夢を実現させた、ということにすばらしさを感じます。

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