浅井天察上人

(杉森)


応声教院の繁栄や地域に尽くした偉大なお坊さん



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 「浅井天察上人」は応声教院53代目の住職となり、数々の事業を成しとげたたいへん立派なお坊さんです。
 四国八十八観音像や四国三十三観音像をお寺の境内に建て、応声教院に来れば霊場巡りができるようにしました。日清・日露戦争が始まった時は、長さ20メートルもある布地に南無阿弥陀仏のお念仏を筆で書いて勝利をおいのりしました。これは日本一大きいお念仏で、その幕と筆はお寺の宝として今も応声教院に残っています。また「百遍の塔」と呼ばれているお念仏は、家の柱くらいの四角い木に、見えないくらいの小さな字でびっしり南無阿弥陀仏が書いてあります。これはネズミの毛で作った筆で書いたと言われています。
 明治26年(1893年)の夏、雨がまったく降らず、農民たちは大変困って天察上人に雨乞いを頼みました。天察上人は快くひき受け、みんなで龍の昇り旗を先頭に笛や太鼓を鳴らしながら桜ケ池(浜岡町)まで行列を作って桜ケ池で龍となった皇円阿閣梨上人においのりしました。すると不思議に大雨が降り出したそうです。
 大正7年(1918年)には、徳川秀忠(徳川2代目将軍)が宝台院(静岡市)に建てた山門を応声教院に移しました。この山門は国の重要文化財に指定されています。
 天察上人の最も偉大な業績は応声教院と桜ケ池の伝説を布教したことです。自分の生まれ故郷である三河をはじめ愛知県一帯・岐阜県へと毎年出かけて行きました。おかげで今日も全国からおまいりに多くの人々が訪れます。このように天察上人は応声教院の繁栄や地域に尽くした偉大なお坊さんです。大正12年(1923年)に66才で亡くなりました。