八 木 勇 平

(稲荷部)


鍛えられ、がんばりを積み重ねた人



inaka28.jpg   八木勇平さんは明治45年(1912年)に8人兄弟の末っ子として稲荷部に生まれました。家は大きな農家で、お父さんは、村長までつとめられた人でした。お父さんは52歳で亡くなられ、教育熱心なお母さんとお兄さんに育てられました。兄弟みんなが上級学校に進んだため、家計はよそからみるほど楽ではありませんでした。
 自分の夢であった鉄道の機関士になるために工業学校を目指しました。試験は合格しても、色盲(色を正しく見分けられない)で合格できないだろうと言われました。すでに上級学校の試験時期を過ぎていたので翌年を期して高等科に進みました。色盲ということで工業だけでなく、先生になる学校もだめ、陸海軍関係の学校もだめだといわれて、とてもショックが大きかったそうです。そこで県下一の静岡商業学校を目標にしました。競争率5倍だったので、1年間みっちりと受験準備をして合格しました。入学してからも県下各地から優秀な成績で入ってきた生徒が多く、少しなまけるとすぐに成績は下がるので猛勉強をつづけたそうです。でもガリ勉ではなく柔道もやりました。小樽商科大学も4倍の競争率でしたが、親代わりのお兄さんから「受験は1回だけ」と言いわたされましたが、見事合格しました。
 昭和8年(1933年)東京横浜電鉄鰍ノ入社し、いつも全力投球でがんばり、東急グループの創設者五島慶太さんに認められました。認められて昇進するほど困難は多くなりましたが、県下一の学校を突破し小樽商科大学も1回で合格というがんばり屋なので、階段をのぼり上がるように出世しました。それは内田尋常高等小学校時代から鍛えたからだと話されました。そして昭和48年(1973年)東急電鉄社長、50年(1975年)同会長、昭和58年(1983年)静岡県人会会長になりました。平成13年1月に88歳で亡くなりました。
 内田小学校にはピアノやテントを寄付していただきました。八木さんが社長だった関係で東急建設で校舎の耐震工事を請け負っていただきました。